2006年5月に行なった「第5回工芸のこれからを語る懇談会」で、「実践知」という言葉を投げかけてみたら、即座に支持の表明を受けました(詳細はp.6-7)。

そこで「実践知とは何か」について説明することにします。まず僕の個人的な見解を述べるところから始めるなら、「実践知が尊重される社会を目指す」という意識に目覚めることが肝要、というのがポイントです。今の社会が尊重しているのは「近代知」といって、エリートとか官僚とかを作り出すための知です。近代知は、自分では何もやらないでただエラそうに人に指図してすまそうとするような知です。そういう知が尊重される社会では、実践知は疎んじられます。あるいは下級階層の人間のやることとして差別されます。そういう社会では、ものをつくって生きようとする人間は不当に低所得を余儀なくされる。なぜかと言えば、実践知が尊重されていないから。おまけにパトロネージもないということになると、文化は衰退の一途をたどることになります。

近代知の本質はコンセプチュアリズム(観念主義)というところにあります。コンセプチュアリズムは、(意外に思う人もいるかもしれませんが)物事をすべて量に換算して比較していこうとする思考です。質は問わないというか、疎んじられるのですね。何でも量に換算していく思考が、ものと人間の関係をすべて貨幣的な関係に置き換えていきます。実践知はそうではありません。実践知はものと人間の関係の質的な面を基盤として展開していくものです。それはしかし経済的な停滞を招く危険性を有しているから、現代では実践知は尊重されないということになるわけです。

では実践知が尊重される社会を目指すために、これからどういうことをやっていかないといけないかというと、これがとても難しいことのように思われます。「ものを作ることを通して得られる知」を身につけるのは、ものを作ることによって以外にはありえませんが、それならば、〜〜教室とかカルチャーセンターとかが大流行している現代では、みんなこぞって実践知をやってるじゃないかと言われそうですが、それはぜんぜん違うことです。どう違うのかというと、それらは近代知が支配している現状下での、余暇近代知とか近代趣味知とか言うべき知の類であって、実践知が尊重される社会が目指されているわけではありません。そのあたりの、実践知と余暇近代知とか近代趣味知とかとの違いがまず明確にされないといけません。

医療を例にして「実践知」を説明してみましょう。臨床医療というのもひとつの実践知であると言えなくもないのですが、現行の医療技術は経験をいくら蓄積しても、医者として賢くなっていくというふうにはなってないように見えます。医者の技量を個別的に見ていくと、昔と比べてむしろ低下しているのではないだろうかと思えるほどです。その一番大きな原因は、触診が軽んじられてきているということだと思います。自分の手で患者の身体を触って、それだけで病の状態を洞察する、そういう力がなくなってきているようです。自分の手で身体を触り、質のレベルで直観的に身体の状態を見抜くという技量、それを医療における実践知と呼ぶのですね。そういう実践知をどうやって取り戻していくかということです。

そのためには、実践知が尊重される社会が目指されるということが肝要です。そうでなければ、工芸(文化)はただ消滅への道をたどるばかりだと思います。


「実践知」に関する資料

1.「第5回工芸のこれからを語る懇談会--「実践知」の提唱」

2.Urushi-art.net内『かたち』通信より

「実践知」に関する資料文集

1. 「新かたちノート」No.12巻頭文より(2006年8月5日発行)