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第14回――――2017年10月21日(土)

  テーマ―――「五感の探索――味覚のシンフォニーを愉しむ」
  会場―――和食料理店
(東京都港区青山)
  講師―――料理店店主(料理人)


窓越しに見える庭を眺めながら


[献立]
1.
車海老、生うに、長芋、とんぶり、土佐酢ゼリー掛け
2.焼胡麻豆腐
3.松茸と鱧の小鍋仕立て
4.鰆の焼霜造り
5.海老芋、銀杏
6.食用ほおずき一個
7.京鴨、九条ネギ、粟麩、治部煮
8.新米、イクラ醤油漬け、鯛胡麻和え、香物
(上掲画像参照)
9.
黒糖プリン
    柿、無花果、シャインマスカット、白ワインゼリー掛け

[さわり]

このお店で過ごす時間は、2〜3時間ほどです。料理が美味しいことは言うまでもありませんが、ただ美味しい、美味しいで終わるのではなくて、時間の推移そのものが愉しめます。それは音楽のコンサートや観劇で過ごす時間とまったく同質のものです。音楽におけるメロディーやアンサンブル、舞台におけるストーリーや空間構成を味覚の上で体験していくわけです。料理の一つ一つは曲や場のようなもので、それぞれにひとつの世界があります。そういうふうに食事それ自体に集中して時間が過ごせるということは、これまでにはなかった体験であるように私には思われました。

 ※ 会誌の報告は、会食中に発せられた参加者の言葉で構成しています。





第13回――――2017年9月10日(日)/於・長谷川沼田居美術館
                      (栃木県足利市)

  テーマ――――長谷川沼田居美術館を訪ねる
    講 師――――江尻 潔氏(足利市立美術館学芸員)
           笹山 央(かたち塾代表・工芸評論)


         ※ レクチャーの後は、足利市立美術館、大川美術館(桐生市)を訪ねました。 
[さわり]
長谷川沼田居(1905―83)は生地栃木県足利市で生涯を送った日本画家です。50代後半あたりからほとんど眼が見えなくなり、60代には両目の眼球摘出をして完全に失明しますが、絵は亡くなるまで描き続けました。しかし沼田居の絵画世界は失明前後で大きく変わるわけではなく、「見ること」への関心が若年時からの作画の特徴をなしていたようです。一言でいえば「見ることを観る」を絵にしていくような作風であったかと思います。

北関東における沼田居の創作活動を、日本の戦後美術のデータとして是非認識を持っていただきたいと考え、このテーマを企画しました。(笹山)




第12回――――2017年6月25日(日)/国立新美術館内・
                    natural kitchen 『yoomi』(六本木)

   テーマ――――ジャコメッティの創作を愉しむ

    講 師――――笹山 央(かたち塾代表・工芸評論)
 
【さわり】
紙の上に現出しているものが、果たして本当にジャコメッティの眼に見えるまま≠フ形であるのかどうか、という疑問が浮上してきます。私が思うには、おそらく見えるまま≠ナはなくて、ジャコメッティが実際に見えるまま≠ニ感じていることと、紙の上に表されている図像との間に何がしかのギャップを感じているのではないか、ということです。そのギャップが感じられる限りは決して見えるまま≠ニいう目的に達せられてないわけですから、それで結局「もっと、もっと」ということで、線が何度も何度も描いたり消されたりする、その作業が果てしなく繰り返されていくわけですね。



かたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.12では、展覧会も含めて詳細な報告を掲載しています。



第11回―――2017年4月1日(土)/於・和光大学ポプリホールリハーサル室

   テーマ――日本のかたちに見る「空」の表現について

   講師――笹山 央[かたち塾講師]


【「空」を表現した作例として挙げた作品(抜粋)

    
那智滝図     浦上玉堂         歌川広重                     岸野魯直


【さわり】

次の四つの項目に分けて“空”をどう考えていくかということを論じていきました。
1、もの・ことから「じっと見詰められている」という感覚について
2、“空”とは意味を超えている状態であること。
  その意味では、その表現は反コンセプチュアリズムに基づくこと。

3、平面上に厚み(ヴォリューム感)を作り出す方法について。
4、「白い空間」を生かした作例。



かたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.11では、展覧会も含めて詳細な報告を掲載しています。



第10回―――2017年1月28日(土)/於・和光大学ポプリホールリハーサル室

   テーマ――音を体験するワークショップ[U]

  
  講 師―――永井朋生(パーカッショニスト)

  

【さわり】
 前年度の第5回「音を体験するワークショップ」がさまざまな展開の可能性を残したので、2回目を開催することととなりました。講師も前回と同じく、パーカッショニストの永井朋生さん。楽器は、「音の出るものであれば何でも」ということで、参加者各自が持ち寄りました。 演奏はお互い初対面同士でもいきなりの即興の合奏。長さは一曲1分前後で、10曲ほど演奏しました。曲ごとに趣向を変えていったことは言うまでもありません。
 最後に、録音したものを永井さんが用意してくれた動画と合わせて試聴するというところまでやり、「音楽になっている」ことを確認して終了しました。



かたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.10では、展覧会も含めて詳細な報告を掲載しています。


※即興合奏と動画を合わせたものは、YouTubeでご覧になれます。
https://youtu.be/XAHd5vZWJO0



第9回――――2016年10月16日(日)/於・雪後庵(東京都新宿区)

   テーマ――茶の湯の中の光と音

  
  講 師―――渡辺宗牛(雪後庵主人・表千家講師)

   

【さわり】 
 光(明暗)については、夕刻になって薄闇が少しずつ部屋の中に忍び込み始めてから、かなり薄暗くなってきても、用意されていた行灯(あんどん)などの灯具に灯りがともされることはありませんでした。宗牛さんに習っている人によれば、雪後軒ではほとんど真っ暗とも言える状態になっても、灯りをつけずに稽古を続けることがあるとのことです。ものがしかとは見えづらくなった中で、身体的な感覚を働かせながら稽古をしていると、何か別な感覚――いわば五感を動員していくような感覚が芽生えてくるようだとも言っていました。
 薄闇の中でものを見ると、日の光の中で見るのとはまた違ったものが見えてくるようでした。床の間の掛け軸は山水画でしたが、墨の黒さが闇の暗さに徐々に染められて行き、白黒の諧調が変化していくようにも感じられました。




かたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.09では、展覧会も含めて詳細な報告を掲載しています。



第8回――――2016年9月18日(日)/於・成城ホール集会室(東京都世田谷区)

   テーマ――塩香をつくり、愉しむ

  
  講 師―――栃木美保(造形作家・アロマテラピスト)


  

【さわり】 
栃木さんの話から

・なぜ香りにこだわるかと言えば、第六感のはたらきを信じるために五感を研ぎ澄ますのです。危険な匂いのするものを嗅ぎとる力をつけたい。

・美術展「スサノヲの到来」(足利市立美術館、渋谷区松涛美術館、他で開催 2015年)に参加したときこの日本の神話とどうかかわるかを考えて、“清らかな怒り”という言葉に思い至った。造形表現者としてこの時代や社会に対する責任ということから免れることはできない。

・嗅覚が他の感覚とちがっているところは、刺激が脳の中枢に達する速度が速いということ。だから嗅覚による判断の仕方は動物のそれに近く、他方、匂いに対する防御の方法がないので、対応の仕方を間違えると危険さも生じてくる。


 
p.3から

かたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.08では、展覧会も含めて詳細な報告を掲載しています。




第7回――――
2016年6月5日(日)/於・可喜庵(町田市)

   テーマ――曜変天目談義――やきものの根源へ

  
  講 師―――桶谷 寧(陶芸家・曜変天目茶碗の再現者)





  
桶谷 寧作「曜変天目茶碗」                         曜変天目茶碗のミクロ写真(撮影/西川 茂))


【さわり】
 桶谷氏の話から

共有結合と水素結合
 今の陶芸の主原料は石灰釉です。石灰釉は必ず共有結合します。共有結合すると流れたりしない(液体化しない)んです。飽くまでも化学合成しちゃってる。合成する温度が一三〇〇度とすると、融ける温度は一二〇〇度なんです。だから合成する段階では釉薬の沸点を超えているということになります。それを無理やりやろうとするものだから、窯の温度を1度2度とややこしい話になってくるんですね。共有結合が入ってなければ、一一〇〇度で焼こうと一三〇〇度で焼こうと関係ないんです。一一〇〇度でも釉薬は流れます。温度は関係ありません。温度というのは時間を縮めているだけなんですね。化学的には、温度と時間は反比例する関係にあります。
 世の中のことは基本的にはすべて水素で成り立ってるんです。水素がどう在るか。水素があるから電気を通すし、光を反射する。金属が光るのは表面に水素があるからです。この意味で、化学結合においては水素結合ということが重要です。




かたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.07では、展覧会も含めて詳細な報告を掲載しています。



第6回――――2016年5月1日(日)/於・和光大学ポプリホール会議室(町田市)

  日 時――2016年5月1日(日)
   テーマ――〈いいもの〉についての根源的再論
     講 師――笹山 央(『現代工芸論』著者 かたち塾主宰)


【さわり】
  工芸の仕事に携わる人にとっての拠りどころとは、まさに美的なものをおいて以外にはないの ではないでしょうか。あるいは、「自己を律する」ための拠りどころをみずから創り出していく ことが、「工芸の創作」ということに他ならないのではないでしょうか。そのようにして、自律 の拠りどころとしての美″の形象が、「自己を律する」ことから生じてくる善き″のイメー ジに支えられて、善いもの″が生まれてくるというわけです。

  後半のフリートーキングでは、美術の側から工芸に寄せられる関心のひとつとして、工芸の成 り立ちには〈他者〉(使う・観る側)のかかわりが含まれているということがある、ということ が話題になりました。これに対して私は、現代の工芸にとっての〈他者〉は、西洋的な概念で捉 えられている〈他者〉であることが問題だと返しました。つまり、創作の意識の中に「使う」と いう意識は希薄であるということです。言い換えると、西洋にはもともと〈他者〉概念というも のはなく、「自己同一性(アイデンティティ)を基盤とする〈私〉の中で〈他者〉をどう構成す るか」というような発想で〈他者〉が論じられていたのです。そういった西洋的な感覚を現代の 工芸は受け継いでおり、「どう使うかは使い手に委ねる」という言い方で、自らの内なる〈他者 (使い手)〉は放棄された状態にあります。



かたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.06では、展覧会も含めて詳細な報告を掲載しています。




第5回――――
2015年12月6日(日)/於・永井朋生ミュージックアトリエ

   テーマ――「音」を体験するワークショップ

  
  講 師―――永井朋生(パーカッショニスト)


    
永井さんの演奏を聴く           フリートーキング              ハロゲン電熱器の金属格子から音を出す



【さわり】


インタビューでは
「ものにはフシがある」という話。フシというのは、たとえば細長い鉄の棒の、ある箇所を持って叩くと音が長くいつまでも消えずに余韻を響かせるという、そういう箇所のことを言います。

 それから「物体は様々な音を持っている」ということがここで新たに体験され、それはさらに「ひとつの物体が秘めている音は無限にある」と考えることも可能であるという世界が開けてきました。

 永井さんの話は、音という現象を通して、ものの向こう側に無限の世界を開いていくような趣きがあって、そのために今ここで過ごしている時間がとても豊かなものに感じられてきました。

●即興の合奏

まずは持ち寄った「音のでるもの」をひとつひとつ披露していきました。鳴子のこけし、茶の湯で使う使い袱紗、ハロゲンヒーターの前面を覆う金属格子、小さな金属製のシリンダー状の箱、半磁器製のコーヒーカップとソーサ、紙の空き箱がありました。

 最初はみなさんに目隠しをしてもらい、音を聴いて音源が何であるかを当てようとしましたが、これが思いのほか、精確には言い当てられなくて、目隠しをとって音源を見たときの意外性を通して、ふだんにはごくありふれたものでしかないものが、新鮮に見えてきたりしたのが感動的でした。

 最後にいよいよ即興合奏に入っていくのですが、だれが何を持ってくるのかの打ち合わせは一切無く、音楽の演奏経験も決して豊かとはいえないような素人が寄り合って、そんなことが可能なのだろうかと、筆者は正直言って半信半疑だったのです。始めるにあたって永井さんが言ったことは、「たとえば2分間演奏するとして、そのうち三〇秒は演奏しない時間を各自が持つようにする」ということでした。それで始めてみたところ、その結果は、永井さんの評価では「音楽になってるよ」というものでした。演奏をデジタルカメラに録音して、その場で聴いてみると、確かに「音楽になってい」て、みんなで聴き入ってしまいました。

全部で3曲ほど演奏され、塾の時間は大幅に延長していきました。そして参加者のみなさんのなかで、演奏のさまざまな可能性が豊かに膨らんでいくように見受けられました。


  

かたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.05では、展覧会も含めて詳細な報告を掲載しています。



第4回――――
2015年10月10日(土)/於・和光大学ポプリホール会議室(町田市)

   テーマ――『現代工芸論』を読み解く

  
  講 師―――笹山 央(『現代工芸論』著者 「かたち塾」主宰)


【取り上げられた5つの論点】

1.工芸の役割について――「工芸の仕事は遠い過去と遠い未来を繋ぐことである。

2.「いいもの」とは何か?

3.「物質の限界を超えていかなければ前に進めない」という命題について

4.用の美について

5.足るを知る――「もの買ってくる、自分買ってくる」(河井寛次郎)

「用の美」をめぐる話題から




かたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.04では、展覧会も含めて詳細な報告を掲載しています。



第3回――――
2015年6月20日(土)/
               
於・清川泰次記念館ギャラリー(世田谷区成城学園前)

   テーマ――「根源へ― 『現代工芸論』から生まれてきたもの」会場でのトークセッション

     多摩美術大学学生による展覧会「根源へ――『現代工芸論』から     
       生まれてきたもの」の会場でのトークセッションです。

  ゲスト―――――多摩美術大学学生5名

  コーディネータ―笹山 央(「かたち塾」主宰)

  日 時―――――2015年6月20日(土)午後3時〜 

  会 場―――――清川泰次記念館ギャラリー(世田谷美術館分館) 
          世田谷区成城
2-22-17 

【さわり】
(出品者の一人、吉田さんの)作品は(下の写真)、一見するところでは渦巻きの形を描いています。その形だけを見れば特に変わったところがあるわけではないのですが、観る人はある種の圧倒感を感じてしまうようです。「二つの秩序」については、トークセッションの聴講者から「これは絵画なのか」という問いが発せられて、議論が起こりました。吉田さんは「絵画でなくてもいいと思っている」と返しました。そして「自然に近づけようとしなくても自然に近づく」「ランダムななかにも秩序がある」といった発言が飛び交いました。最終的に聴講者は「これは絵画である」という結論に至りました。





 「根源へ」についての詳細はこちらをご覧ください。

 かたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.03では、展覧会も含めて詳細な報告を掲載しています。





第2回
――――2015年3月7日(土)/於・櫻工房(町田市)

テーマー――櫻工房(中野みどり主宰)のもてなし
        ――
「気韻」を軸に 紬織り、そして水墨画、現代美術へ

ゲストー――
中野みどり(染織家 櫻工房主宰)
プログラムー
1.紬織りの成り立ちの話(中野) 2.織物、水墨、美術、音楽にみる気韻に      ついて(笹山) 3.質疑応答 4.観桜会


紬の布の成り立ちの説明は、蚕の糸を繭から繰り出して
観察するところから始まった。



【さわり】
●「気韻」とは?
 山水画を軸とした中国の絵画の隆盛期に、「画の六法」を論じた文献があり、その第1に「気韻生動」ということが挙げられている。中国絵画における写実の理想として「気韻生動」ということが立てられたのであり、それは絵画の精神性の内容と深く結びついていた。現代の造形表現に対する評価として「気韻」という言葉は使われなくなったが、それは「精神性」という理念を失っていることを表わしている。
現代において「気韻」という言葉を使うのは、表現のメディアとしての素材(物質)の特性と、それを扱う創り手の「わざ」との絡み合いにおいて、そこに発生してくる「気の響き(韻)」ということに対してである。つまり、物質からどう気を発生させていくかということが重要だということを言おうとするものである。
特に布は作り手の技量のレベルに応じて、「気韻」を発する象徴的なメディアであり、その代表的な例として、紬織り作家 中野みどりにおける「紬織りの成り立ち」についての解説を中心としてレクチャーを構成した。
後半は、水墨画における「気韻」、現代美術における「気韻」について、井田照一(故人)、井上まさじの作例を挙げながら言及した。
レクチャーの終了後は、櫻工房所蔵の狩野養川院(江戸時代後期)筆3幅軸「雪月花」を掛けて、櫻工房のもてなしを愉しませてもらった。

詳細はかたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.02をご覧ください。



第1回――――2015年1月25日(日)/於・江東区森下文化センター第2会議室

テーマー――「ガラスの幻惑への道程」
ゲストー――小川郁子(江戸切子作家)
プログラムー1.切子についての解説 2.小川さんへのインタビュー 3.質疑応答

    
会場                  小川郁子作  被硝子切子鉢「巡る」  同見込   同部分

【さわり】
●非対称的とはどういうことか
 さて、このインタビューの山場として私が設定したのは、作品「被硝子切子鉢〈巡る〉」(上の写真の右3枚)の造形です。この作品は少し離れて見ると、縦長に見たときの縦の中心線で、左右が少しズレて見えるように作られています。上下の先端部分を見ると明らかにズレた形をしていることが分かります。それはあたかも、器物を真ん中で二つに切って再び接いだことを思わせるような作行きになっています。つまり、器物を二つに割って(破壊)、改めて接ぐ(再生)ということを、疑似体験的に表現している、というふうに受け止めることができるわけです。そのように見た場合に、その制作の動機を促しているものは何なんでしょうか。

詳細はかたち塾会報「KATACHI-JUKU」No.01をご覧ください。




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