長谷川沼田居論のためのノート

   ※本稿では、沼田居における視覚のはたらきとしての「みる」をひらがな表記した。



 このノートは、平成一四年に足利市美術館が企画・開催した「長谷川沼田居展」に際して発行された図録を参考データとして書きとめたものである(筆者が実作を観たのは、「『スサノオの到来』展が最初であり、次に今年の夏に足利市美術館で開催された「長谷川沼田居展」においての2回である)。さしあたって沼田居の画業の全体像を論じようとするものではなく、その前段階(あるいは更にその前)の、画業の基軸をなすと思われるところの一つの筋道を描くための覚え書きである。その意図の下に、画業全体の中から、筆者の主観的興味に即していくつかの作品群を選出して、その印象を述べつつ〝筋道〟をラフスケッチしていくことにする。

 まずはそのいくつかの作品群を列挙しておこう。

     1930年代半ばから40年代を通しての、松を中心とする樹木をモチーフとした作品群。

     1950年代に描かれた「ひまわり」「自画像」連作および60年代初頭の「太陽花之図」連作

     一九六〇年代前半「かきつばた」連作

     失明後の作品群

 

 

     松を中心に、樹木を描いた作品について

 

沼田居の初期作品中においては、筆者には樹木を描いた作品が印象的である。画面を縦にすっくと伸びていき、その先に空(天)が暗示されている。若き沼田居にとって、樹木の形はどのような意味を持っていただろうか。その意味はおそらく多義的であるが、ここでは、「天と地を結ぶもの」として樹木の形象の意味を捉えておくことにする。



松を描いた作品で特に注目されるのは、1946年ごろの抽象的に表現された作品群である。これが注目される理由は、それまでの作品が対象を精密に描写していく写実の技法に基づく作画であったのが、ここで抽象化の方向を顕著に示しているという点にある。

       
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     73                 75                       74

抽象的といっても、脱具象志向の表現ではなく、モチーフの形状を単純化(または文様化)していくような作画で、松の内在的な特徴を視覚化していこうとするかの如きである。ここにはまた、自然のリズムを捉えていこうとする意図も読み取れる。

 

若き沼田居にとって松がどのような意味を持つものであったかについての検討はとりあえず行わずに、ここでは抽象的に表現された松の絵に関心を向けたい。

 

 この松の抽象化表現には、実は伝統的な着物柄にそのモデルがある。「松重(まつがさね)」と名づけられた小紋柄の一種である。沼田居はこの文様にインスピレーションを得て、絵画に置き換えていったことが、ひとつの可能性として想定できる。インスピレーションとは、「松をこういうふうにみることもできるのか」という発見、と言い換えられるだろうか。

         松重紋

 そしてそのことを起点として、対象の中に「何をみていくのか」という問題が意識の表に上ってきたと、ここでは考えてみたい。

カタログの作品番号7278は松の抽象化表現による作品であるが、絵の趣きからして仮に72.73.~7576.77.の3つのグループに分けるとして、それらが制作された順番はどのようであったか、検討してみる余地がありそうである。私の推測では、76.77.が最初の取っ掛りとして小紋柄の松重を参照し、そこから73.~75へと展開し、そして72.のステージに進んでいったように感じられる。

いずれにしても、松の抽象化表現を試みたことは、それまでの画風がもっぱら精密描写による対象のリアルな再現を目指す方向のものであったところから、非写実的・抽象的・象徴的な表現の世界を視界に取り込んでいく、沼田居の制作史における画期的な節目として意義付けることができるのではないだろうか。それは単に作風上の変化にとどまらず、「何をみようとするのか」という問いにかかわる重要な意味を含んでいると私は思う。

カタログの中でその後の作品を見ていくと、同じ具象表現であっても、細密描写的というよりは対象の形を象徴化して表現していくような傾向を示している。そして1950年代初頭の構成主義的な抽象絵画の試作をへて、「ひまわり」「クリスト」「自画像」の世界へと進んでいくわけだ。

 

 

閑話休題――「何をみようとしたか」および描法について

 

この時期(1940年代半ば~1950年代)の作風上の特徴として留意しておきたいことは、一方に対象の細密描写的な造形志向、他方に抽象化表現に見る奔放な筆致表現の両極を備えて、両者が混交していくような領域に自らの作風を打ちたてようとしているように見えることである。この二つの極は、一人の美術家において同じ時期、あるいはひとつの作品中にに同居していることは他にあまり例を見ないような気がする。そして私たちは、特に意識しない場合には、一人の創作家においてこの二つの対照的な技法の取捨選択を、作家の気質や技法上の好みとして捉えがちではないだろうか。

 

ここでちょっと閑話休題敵に、ある文章を紹介しておきたい。

「唐の滅亡ののち、五代の蜀と南唐には、花鳥画の歴史上で最も著名な画家が現れる。蜀の黄筌とその子の黄居宷、江南の徐熙・徐崇嗣父子である。前者が「富貴」、後者が「野逸」と称され、各々独特の画風によって知られた。彼らは、これらの小国を統一した宋朝に帰順し、宋代の宮廷画家として活躍した。そして、それぞれ異なった地域の文化を背負った二派は、宋初の宮廷画院で争い、蜀の黄氏一派が勝利を収め、その後の宮廷で勢力を得たといわれている。

(中略)

当時の「富貴」と称された蜀の黄氏のがふう(黄氏体)は、唐以来の伝統に近い濃彩の華麗・精緻なものであり、一方、「落墨花」といわれ、「野逸」と評された南唐の徐氏の画風(徐氏体)は、ラフな筆遣いの水墨画風の画風であったと推測されている。」

                 (宮崎法子著『花鳥・山水画を読み解く』より)

こういう文章を読むと、描法としての「富貴」と「野逸」は絵画の伝統を二分する二大描法として捉えることができ、両者の相克によって平面上での視覚造形の歴史が形成されてきたというような観点が得られそうである。つまり、この二大描法は個々の画家の気質や好みに帰着されるというよりは、「何を表現するのか・モチーフの中に何をみるのか」をめぐっての二つの機軸的な見解を表すものである、ということである。

このように見るとき、沼田居が同時的に二つの描法を駆使して、「何をみようとするのか」という問いに向き合っていったように見えるということは、単に沼田居の画家としての気質や好みの在り方を超えて、〝絵画の美術史的な成り立ち〟という根源的な問題に向かっていこうとするものを示唆しているようにも感じられる。以上、閑話休題。

 

 

     1950年代に描かれた「ひまわり」「自画像」連作および60年代初頭の「太陽花之図」連作

 

「何をみようとするのか」という問題意識をめぐっての沼田居の創作は、1940年代後半から1950年代を通して徐々にその領域を広げ、メチエ(技法)を充実させていったが、その過程で、視力の弱体化という極めて個人的な試練に見舞われることになる。「何をみようとするのか」という問題は、まさに「みること」の機能の喪失という、問い(テーマ)の設定そのものが否定されかねない事態に追い込まれていくことになる。

 

この時期の沼田居の心境は、視覚機能を喪うことへの不安と恐怖の感情に圧倒されながら、そこからの脱出の方途を必死に探っていこうとする状況にあったと推測される。

沼田居がとった戦略は、「みるという機能」そのものを見ること。眼球を執拗に描き始めるのは、「みることの機能」そのものに向き合おうとしているのだと解釈できる。いわば「メタみること」をヴィジュアル化しようとするわけだが、そこには自己言及的な構造(「みること」を見るということ)を自ずから胚胎することになって、同時並行的にいわゆる「自画像」が量産されていく。

 

そこに更に今度は(たぶん)ゴッホが介入してきたりする。しかし沼田居にとってゴッホは、当座の不安と恐怖を払いのけて創作に没頭できたという意味での救いの神ではなかっただろうか。

ゴッホに啓示を受けながら、自分なりの「ひまわり」をどう描いていくかという問題は、眼球と自画像を「ひまわり」に一体化させるという道を見い出すことによって、ひとつの方向性を得るのである。そうしてその「ひまわり」を描きこんでいくことで『太陽花』へと展開し、そして1960年代初頭にはまなざしの行く先に「ネハン」の幻影が垣間見えてくるまでに至る。

 

 

     1960年代前半「かきつばた」連作

 

1973年、左の眼球摘出により全盲となる。しかし全盲の事実を受け入れたこの時点では、すでに不安や絶望の感情は沼田居の内部からは消え去ってしまっている。摘出前の数年間に描かれた「かきつばた抽象」連作も、筆者にはむしろ、描かれているものの間合いを通して、「透明に澄んだまなざし」のようなものを感じる。さらにそれ以前の「太陽花」に見る筆触の荒れるがままにまかせたような作画も、失明を現実的なものとして予感して恐怖に荒れ狂った心情を吐露しているというよりは、手の動きや筆のタッチ、また色の配置など、「こう動かせばこうなるんだな」ということを確かめているような空気を感じる。カタログの編集者の解説にあるように、「まったく見えなくなっても描き続けることができる描法」を確かめているかの如きである。

 仮にその見方が誤っていないとすれば、ではこの時点の沼田居にとって「描く」とは何を描くことであったのか、「みる」とは何をみることであったのかが、改めて問われてくる。

 

 ここで筆者は、初期の頃に盛んに描かれていた樹木のことを思い起こしたい。樹木は1950年代半ばあたりまで書き続けられていたようだが、60年代に入ると、少なくともカタログを参照するかぎりでは、あまり描かれなくなったようである。視力の低下という逼迫した状況の中で、樹木どころではなくなってきたのだろうか。しかし、ひまわり、鶏頭、朝顔、かきつばたなど地上の草花には、途切れることなく目が向けられている。樹木たちはどこへ消え去っていったのだろうか?

 

 樹木が描かれなくなったのは、画家の中に内在化したからだと考えたい。

樹木の描かれ方から、沼田居が樹木をどうみていたかについて筆者は、本稿の冒頭で「天と地を結ぶもの」と解釈しておいた。だから樹木の内在化とは「天と地をつなぐもの」が内在化したのである。

1950年代後半以降、沼田居の中で天と地はつながり始めたのである。天と地がつながるとは、天は地上化し、地は天上化するということである。地の草花は天上に咲き始めたのである。そして、天の存在舎は目に見えないが地上に降り立っているに違いない。

このことを特に象徴的に表しているのが「かきつばた」であると、考えたい。かきつばたを描いた作品について言えば、初期は地上に咲く姿を観察するように描かれているが、60年代に入ると、いわゆる文様化が進んでいって、あたかも「歌う」かのように描かれている。筆者は、これは天上に咲くかきつばたであると見たい。このようにして、60年代の初めには、沼田居の中で天と地がつながり始めていたのである。

 

 

     失明後の作品群

 

天上的なかきつばたを描き出した60年代前半あたりでは、沼田居はある意味で安心立命の境地に至っていたと思われる。全盲まではもはや時間の問題だと観念して、それを受け入れる心の準備が整っていただろう。そのことは60年代に描かれた作品を通して感じとれる。それらの作品は、透明な穏やかさを伝えている点で共通している。

 

全盲となった画家長谷川沼田居がその後もたゆまなくみつづけていこうとしたものは、「天と地を結ぶもの」であるということを、ひとまずの結論としたい。すなわち「天上化された地の光景」であり「地上に展開する天の光景」である。われわれ鑑賞舎は、そのようなものとして沼田居の晩年の作品群を見ることができる。