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KATACHI BOOKSメールマガジン9

第9号[2025年2月7日発行]
目次

【TOPIC Ⅰ】現代建築論

「建築とは何か」について、“再利用”の観点から提案されていること
  ――『時がつくる建築』を読んで

【TOPIC Ⅱ】映画

邦画『海の沈黙』に見る真贋判断の考え方

【TOPIC Ⅲ】よもやまばなし(文学)

タルホ・コスモロジーの機械美学について
  稲垣足穂『ヰタ・マキニカリス』より

【悦ばしきコトノハ】

『葛西薫の仕事と周辺』より

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【TOPIC Ⅰ】現代建築論
「建築とは何か」について、
“再利用”の観点から提案されていること
  ――『時がつくる建築』を読んで
 前号の飯島直樹さんの寄稿文のなかに西洋建築史学者の加藤耕一さんの名前が出ていました。東京大学の教授で何冊かの自著本を出されていますが、2017年に出版された『時がつくる建築』という本について飯島さんから、同書に書かれていることは「溶ける機能」とも関係が深いと教えていただいたので、早速このお正月に読んでみました。
 本のテーマは、一言で言えば「建物を創造的に再利用することの勧め」ということです。「再利用」という言葉を本書では「リノベーションRenovation」との関連で使っていますが、Renovationの辞書的な意味は「修復、修繕」で、厳密には「再利用」という意味は含まれていないようです。しかし本書では修復・修繕して再利用するまでを含めてRenovationという言葉で表現し、「建物を建てる」ことの意義を歴史的な事例を参照しながら説いていこうとしていると読めます。
 Renovationにはもう一つ「修復・修繕して文化財として保存する」という方向が考えられます。「再利用」と「保存」の内の「再利用」に主眼を置き、さらにもう一つ「再開発」というカテゴリーとの比較を通して「再利用」を推奨しようするのが本書の狙いとするところです。
「再開発」とは建物を新しく設計からおこして建てる在り方を指しています。つまり「新築することが建物の始まり」ということですね。「建物を建てる」とはすなわち「新築する」ことという観念に私たちは馴染んできています。この観念の下では「再利用」は「新築の仕事とはまったく別の、(既にある物に手を加えて補修するだけの/筆者追記)一段低い位置に見られている」行為にと考えられます。これに対して本書の主張は、「再利用」も「建物を建てる」ことのなかに含めて考えてはどうかということです。
「再利用」を「建物を建てる」行為のなかに含めて定義するということは、建築物が成立する「始まり」と建築物がなんらかの形で存続しなくなる「終わり」と、その両端が確定できない物として建築物を捉えるということになります。あるいは、筆者の思うところでは、「創ることと使うことの境がなくなる」ということにもつながります。そのようなものとして建築行為を考えていこうということです。
 以下、本書の受け売りですが、イタリアルネッサンス期の人文主義学者L.B.アルベルティ(イタリア 1404‐1472)は絵画や建築の分野で時代を画する理論書を書いた人で、建築部門においては、現代の建築史家M・ガルボによって「アルベルティが設計と施工を原理的に分離したことによって、原作者としての建築家という現代的な定義が生まれた」とされています。ガルボはさらに彼の著書のなかで、「アルベルティの理論において、建物とは建築家によるデザインと全く同一なコピーであった」と書いています。
「建物とは建築家によるデザインと全く同一なコピーであった」という捉え方が面白いですね。つまり「建築家が設計・デザインしたものがオリジナルな創作物」で「実際に建てられた物はそのコピー」というわけです。このような考え方建築にかぎらず、は西洋文化の伝統に底流する「現実はイデアのコピー」というプラトン主義的な現実認識と言えます。
 この考え方によれば、現実の存在物はみなコピーとかシュミラークル(模造品、見せ掛け)の集まりということになります。コピーやシュミラークルの集まりとして表象される世界は、「始まりもなく、終わりもない」世界であり「創ることと使うことの境がない」世界とも言えます。プラトン主義的な見方を反転して、現実のユーティリティのシーンのなかで人間と事物のリアルな関係を捉えていきましょう」ということを、『時をつくる建築』は提案しているわけです。(H.S.)

 

 

 

 

『時がつくる建築』加藤耕一著

発行/東京大学出版会 定価/3,600円(税別)

 


【TOPIC Ⅱ】映画
邦画『海の沈黙』に見る真贋判断の考え方
 昨年の暮から、今年の正月をまたいで現在も一番館での上映が続いている邦画「海の沈黙」は、テレビドラマ作家の大御所、倉本の原作・脚本になる映画。たまたま倉本氏へのインタビューがテレビで放映されたのを観て、発言の一部に引っかかったこともあって、映画を観に行きました。倉本氏は「今の人に、本物と贋物を見分ける眼力を養って欲しい」というのがメッセージである、というふうに語ってました。
 見終わって、同道した連れは、一昔前の映画みたいだと感想を述べましたが、私は昭和期の映画のように感じました。
 古い時代の映画のように感じたのにはいくつか理由が挙げられますが、ここでは、今という時代が、フェイクニュースだのAIによる画像加工だの成りすましだのと、偽造された情報や画像が巷にあふれかえっていて、しかも真贋の判断がほとんど不可能であるぐらいにコピー・偽装・見せ掛けの加工技術が精緻化しているという状況があることを挙げておきます。そんななかで真贋を見分ける眼力を養うということは、ほとんど効果がなく無力なことであるような気がします。
 それよりも、真贋という区別にこだわってかえってドツボに落ち込むことがないように、対処法を探した方がいいように思います。どういうことかというと、この現象界で日々遭遇する事物と向き合って、それらが自分にとって必要であるか否かの判断を迷うことなく下していくということが重要だということです。その意味では、たとえ贋作であっても、自分が「これは自分にとっていいもので、自分の身辺に置いて賞玩したい」と思えば、そのように判断する自分を信じるということです。そうではなくて、作品の価値をたとえば資産的価値を尺度として判断しようとすると、損得・欲得が絡んだ贋作問題のドツボにはまって、迷妄の世界に沈み、場合によっては悶死に至ることもなくありません。
 この意味で、映画「海の沈黙」に込められたメッセージのなかには、普遍的な真実に触れる局面も認められました。贋作者の汚名を被されて薄幸の生涯を終えようとする天才画家(主人公)が今わの際に見た夢が、以下のように語られるシーンです。
「主人公がゴッホの名作「糸杉のある風景」を模写した絵の前にゴッホの幻影が立ち現れて、模写された絵を長い間じっと眺め、それから主人公に向かって「いい絵だね」と感想を述べた。そしてそれをきっかけに主人公とゴッホの幻影が懇談のひとときを楽しんだ」
というものです。
 美を純粋に享受する世界においては、模写・コピー・見せ掛けといった美の創作のされ方は多様にあり得るけれども、「贋作」という概念はなく、ただクォリティの高い低い(模写が本歌より出来が良いということは往々にしてあり得る)、個人の好き嫌いの判断があるだけだ、ということですね。
 さすがは倉本さん、という映画でした。  (H.S.)

 

 

「海の沈黙」

原作・脚本:倉本聡 監督:若松節朗 主演:本木雅弘


【TOPIC Ⅲ】よもやまばなし(文学)
タルホ・コスモロジーの機械美学について
  稲垣足穂『ヰタ・マキニカリス』より
飯島直樹さんの作品集『溶ける機能――飯島直樹のデザイン手法』に掲載したインタビュー記事で、日本の文学領域で創作活動をした稲垣足穂(いながきたるほ 1900‐1977)について言及しています。この人の文学世界は“タルホコスモロジー”などと通称されていて、その特徴を一言で表わすならば、モノや機械へのフェティッシュな感覚と人間の精神のはたらきを結びつけて叙述していくようなところにあります。
 『A感覚とV感覚』『少年愛の美学』『一千一秒物語』『弥勒』など代表作をはじめ、たいていの作品は文庫本で読むことができますが、河出文庫からは『ヰタマキニカリス』というのが出ていて、これはいわゆる“機械嗜好”の感覚が全面的に発揮されたショート・ストーリーズ33篇が収められています。そのなかから文章の一端を以下に紹介しますので、機械嗜好の情趣というか、足穂の文体の味わいを少しでも感じ取っていただければ嬉しく思います。
…二十世紀に生まれたエァロプレーンが、名称も示すような広い平面をそなえていることで、かつての私たちをしてどんなにそれを不思議な、したがって不安な機械だという先入主によるのか、金属でなければならぬように私たちをして思わせたものです。(中略)それなのに、飛行機はただ木ギレや針金で組立てられたものだったから、私たちをして、「これはいわば鳥の羽をまねたもの、あるいは凧の一種であるから、また十分に機械になっていないのでなかろうか」と考え直させたくらいです。だから、そんな完全ではない代物、つまり巨きな箱凧に発動機がついてることの上には――どう云えばよいか、あるしゃれた、冒険的な気分があって、同時に一種の痛ましさと、万難に打ち克とうとする人間意力の健気さとが感じとられたものでした。…」(「飛行機の哲理」より)
 話は変わりますが、筆者が美術に興味をもち始めるのは高校1年のときで、シュルレアリズムの画家ダリの絵画に遭遇したこのが始まりでした。フロイトの精神分析学の入門書を開いたときに目に飛び込んできたのです。その後シュルレアリズムの美術に親しんでいる内に、あるとき学友に「シュルレアリズム絵画は潜在意識の看板絵か?」と皮肉った発言を聞かされて、シュルレアリズム的表現の意義についていろいろ考えていくことになりました。そして到達した結論は「人間の文化的活動とされている事柄を“機械的情趣”として表現(見立て)していくことがシュルレアリズム(他、20世紀初頭に始まる前衛美術)の本質である」ということでした。
 実は“機械的情趣(マキニカリス)”ということが、19世紀後半から20世紀前半にかけて、メンタルな世界の基本的なキーワードとして浸入してきているということ、それを感じとっていたことが、私のなかでのタルホコスモロジーとの出会いを実現したのでした。  (H.S.)

 

 

『ヰタ・マキニカリス』

稲垣足穂著 河出文庫


 

【悦ばしきコトノハ】
「便利や楽が生まれると、同時に不便や苦が生まれる」(『葛西薫の仕事と周辺』六耀社刊 より)
葛西 薫(グラフィックデザイナー、アートディレクター)

 

「同時に」という言葉が入ってるところがミソ。便利と不便、楽と苦は裏表の関係として感じられるということです。
便利な機械を使って楽に仕事をこなしていくのも、手作業で時間かけて苦労して仕事していくのも、仕事量の格差は発生しても、得られるものの質量の多少は、一概には判断できないですよね。

 

 

 

葛西 薫 /アートディレクター。サン・アド取締役副社長。東京造形大学客員教授。

 

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編集後記
かたちブックスめるまが便  第9号
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Copyright(c)Hiroshi Sasayama 2024
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