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KATACHI BOOKSメールマガジン10

第10号[2025年3月8日発行]
目次

【TOPIC Ⅰ】かたちブックス新刊本のご案内

『切手のゴッホ』という本が出ました。

【TOPIC Ⅱ】海野次郎さんの近況

Youtubeで「加藤耕山老師遺墨展」について語っています。

【TOPIC Ⅲ】よもやまばなし(前回のつづき)

19世紀後半の‟人間機械論”

【悦ばしきコトノハ】

森佳三[造形作家]のことば(X(旧Twitter)より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【TOPIC Ⅰ】かたちブックス新刊本のご案内
『切手のゴッホ』という本が出ました。

 著者は篠原俊光という人で、小学2年生の時から約63年間の切手収集のキャリアを持っています。その膨大なコレクションの中からフランスの後期印象派を代表する(19世紀西洋絵画のもっとも偉大な画家の一人とも言える)ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの、生涯を通して創作された作品を一冊の本にまとめたものです。
 世界の国々で発行された切手が遺漏なく集められたその数は1248種類にのぼり、約160ページにわたってほぼ原寸の大きさで、いわば紙上展観の趣向で構成されています。1ページにつき10点前後の切手がレイアウトされていますが、切手サイズの小さな画面とはいえ絵がしっかりと見え、ゴッホ絵画の世界が堪能できます。
 その意味では画集としても楽しめる本です。画題をテーマ別に分類した編集は、同じ絵でも色や質感の微妙なヴァリエーションや、絵柄が反転したのも合ったりして、切手というメディアならではの楽しみ方もできそうです。
 ゴッホの好きな人にとっては垂涎の的と言い得る本ではないでしょうか。私(筆者)もゴッホを愛好する者のはしくれとして、未見の絵を見つけると小さな興奮が沸き立ってきます。
 参考資料として、1960年代から現在に至るまでに4回あったブームの各々の発行状況を表にしたものや、発行した国や地域の分布図が添えられています.     (H.S.)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『切手のゴッホ』

 表紙カバー

 見開き見本(自画像)

著者:篠原俊光 発行人:笹山央 発行所:かたちブックス デザイン:鈴木光太郎

定価:本体4,400円 ISBN 978-4-9913029-4-7

ご購入を希望される方は、「購読申込」からお申し込みください 折り返し購入手続きのメールをお送りします。

 

参照サイト
「切手のゴッホ」 
もう少し詳しく紹介しています。

 


【TOPIC Ⅱ】

 

海野次郎さんの近況

海野次郎さんのYoutubeサイト「日本の芸術を語る」に新作投稿。
「加藤耕山老師遺墨展」を取材して水墨について語っています。
 同展覧会は、東京都あきる野市にある臨済宗寺院「徳雲院」で開催されました。
 加藤耕山老師(明治九年-昭和46年)は昭和9年に当時無住の荒れ寺であった徳雲院に入り、晩年まで住職を務めました。明治から昭和の時代を代表する禅僧の一人とされています。海野氏は生前の耕山老師に会ったことがあるとのことです。       (H.S.)

 

 

 

 

Youtubeは下記からアクセスできます。

「加藤耕山老師の遺墨展に行きました。」

 

 

 


【TOPIC Ⅲ】よもやまばなし(前回のつづき)

19世紀後半の〝人間機械論〟
 前号で稲垣足穂の「ヰタ・マキニカリス」の話から、20世紀前期のシュルレアリズム他の前衛美術の運動を「人間の文化的活動とされている事柄を“機械的情趣”として表現していくこと」として意義付けたという話をしました。そのような新しい美学の生誕の背景には産業革命後の機械文明の発展という西洋社会の経済的・文化的状況がありました。そしてそのような状況の中では、人間を機械に見立てるいわゆる「人間機械論」という観念もまた新たに勃興していたようです。
 人間機械論といえば、高校までの世界史教科書の中でも18世紀の啓蒙思想書の一冊として記載されていたのを記憶されている人もおられるかと思います。この時には「生気論と機械論」の対立的な構図の中で「人間が機械であるわけがない」という考えが圧倒的に優勢で、人間機械論は思想史の暗がりの中に葬り去られたような印象がありました。それが19世紀後半になって再び蘇ってきたのです。
 19世紀後半というのは、資本主義システムの発展に伴う都市文化が繁栄の様相を呈していた時代であり、世界のあらゆる物資を参集する万国博覧会が数年おきに開催され、文化的にはロマン主義から自然主義を経て象徴主義という造形理念が風靡していった時代でした。
 象徴主義が言う「象徴」とは「普遍性を宿した個別性」という意味と私は解釈してますが、それは普遍性と個別性の間が橋渡しされた状態をも意味するとも考えられます。普遍性と個別性、つまり二つの対照的なカテゴリーが融合したり、橋渡らされたりした人工物を創り出していくことが象徴主義的な芸術創作の目的ということになります。人間と機械の関係をこのような二つの対照的なカテゴリーと見て、両者の融合、あるいは両者を橋渡しした状態として、人間機械論もまた象徴主義芸術思想の中に浮上してきたわけです。
 また話を変えますが、私(筆者)は今、「近代日本人の魂の行方」ということに関心を持っていて、その事象の一つとして、近代文学のトバ口に立っている北村透谷という詩人の事トを通覧しているのですが、従来浪漫派の詩人と見なされてきた透谷を、人間機械論的な観点から捉え返してみるのも面白そうと感じているところです。
(自分の肉体と精神を囚われの身として叙述した『我牢獄』、富士の山で大魔王と戦いをはじめていきなり四肢を拘束させられて戦意を喪失する戯曲詩『蓬莱曲』などにその片鱗がうかがわれます。)

【悦ばしきコトノハ】
「僕の制作は、デカルト座標ではなくvolumeに基盤を置いている。volumeは元々「巻かれたもの」を意味しているように、空間を渦巻き状に感じるということ。そこから必然的にデフォルメが生じる。その原理はミロのヴィーナスの石膏像を模刻していて気づいた。画像(右)は自作とミロのヴィーナスの石膏像。」 (森 佳三 X(旧Twitter)より)

 

X(旧twitter)というSNSで出会った文章です。投稿者は森佳三というアーチストで、彫刻メインとした造形作家です。
以前から森さんのアカウントをフォローしていて、あるとき男性の頭像の作品を画像で見て、「上手い人だなあ」と感じてました。ただ上手いというだけでなく、実在感というのが妙にリアルに感じられたのですね。この感じって何だろうと思ってました。
しばらくブランクがあって、久しぶりに森さんの文章を読んだのが上記の文です。出だしの文でメルロー・ポンティが思い浮かびました。
また「空間を渦巻き状に感じる」というのが、先史時代から古代にかけての人間の空間の感じ方、表象の仕方を示唆していて、(西洋美学で言う〝遠近法〟、森さんの謂う3次元座標法とは異なる)人間の感覚にとってよりリアルな空間(奥行き)把握に迫っていこうとする意志を感じました。今後の展開を注視していきたいと思わせる造形理論です。   (H.S.)(次回つづきを書きます)

 

 

 

 

(森氏のブログでもう少し詳細な解説がなされています。下記URLをご覧ください。)

https://onelineart.webnode.jp/l/new2/

 


編集後記
かたちブックスめるまが便  第10号
発行メディア:工芸評論「かたち」 https://katachi21.com/
発行サイト:かたちブックス
Copyright(c)Hiroshi Sasayama 2024
本メールの無断複製、転送をお断りします。

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