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KATACHI BOOKSメールマガジン11

第11号[2025年4月11日発行]
目次

【TOPIC Ⅰ】Youtube

海野次郎さんと「民藝」のテーマで対談しました。

【TOPIC Ⅱ】よもやま話(前回のつづき)

空間の「奥行き」について

【TOPIC Ⅲ】人間機械論[3]

「人間は機械が見る夢」

【TOPIC Ⅳ】「『切手のゴッホ』

日本経済新聞の文化欄に著者の文章が掲載されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【TOPIC Ⅰ】Youtube
海野次郎さんと「民藝」のテーマで対談しました。

 

 水墨作家の海野次郎さんのYoutubeに、海野さんと私の対談が公開されました。テーマは「民藝の今日的意義をどう見出していくか」(動画のタイトルとは異なっています)です。
30分ほどにまとめられています。下にさわりの部分を活字化しました(このあとクライマックスになります)ので、興味を持たれた方はぜひ視聴してください。面白いです。
「誰が美を作るのかっていうね。今は個人主義の時代だから、個人という主体が美を作っていくっていう、それが一般的だと思うんですよ。僕は工芸の世界で人間がつくってきたものをずっとを見てきて、思うことはもう一つ主体があって、それは国家なんですね、具体的に言うと古代とかね、中世とかさ、まあ西洋にしてアジアにしてもね、いわゆる専制中央集権国家っていうのあったでしょう。頂点に皇帝とか王様とかがいて、それで一つの帝国を作って。で、その中で工芸品というのも作られていったんですよね。その目的は、まあ一つは国力をあの誇示する、こんなものが作れるんだ。今の感覚でいうと、技術の先端を追求していくとかね。
 ということで歴史的には美の主体はとして国家と個人というのが考えられるんだけど、もう一つあるようっていう、それは民衆なんです。民衆というもう一つの主体があるっていうことを提示したのが民藝なんですね。」
                              (H.S.)

 

 

 

 

 

Youtube ↓
「日本の芸術を語る」

 


【TOPIC Ⅱ】よもやまばなし(前回のつづき)
空間の「奥行き」について

ーー森佳三氏の空間論をめぐって

 

 前号の【悦ばしきコトノハ】で紹介した森佳三さんの造形論は、私にとっても、ヴィジュアルな造形表現物を観る場合の基本的な「ものの観方」をなしているものです。それは学生時代からのもので、以来、工芸・美術の業界で作品を評価していく場合の自分の批評的基盤としてきました。なので今回、森さんの考え方をモデルにして、造形論のさわりを少し論じておきたいと思います(充全に語ろうとすれば長い文章になりますが、ここでは可能な限り短縮して書きます)。
 森さんのブログも参照しつつ書いていきます。キーワードとして「ヴォリューム(volume)」「ムーブマン」「渦巻き」といった言葉が使われています。特に中心となるのが「ヴォリューム(volume)」で、フランスの哲学者メルロー・ポンティ(1908-61)はこれを「奥行き」という言葉で表現したと、森さんは書いています。私は学生時代にポンティの主著『眼と精神』を読んで、ここで表明されている哲学に大いに感化されました。そして造形表現物を観る場合の拠り所として、この本のキーワードをなす「奥行き」という概念に寄ることにしたのです。
 平面上に空間の奥行を表現する一番よく知られている方法は、遠近法とか陰影法とかを使うことですが、その方法でわれわれはなぜ空間の奥行きが認知できるのか、ということは絵画表現に興味を向けはじめたころから私の中で生じてきた疑問でした。『眼と精神』はその疑問に応えてくれたわけです。そしてその過程で、遠近法や陰影法とは異なる奥行き表現の意味とその探求方法を、主としてセザンヌの創作論を通して知り、そして考えていく手がかりが掴めてきたのでした。
 西洋のルネッサンスの中から生み出されてきた線遠近法は、密度が等質な観念的な空間が前提にされていて、森さん言うところの「デカルト座標」とはそのような等質空間の中で構想された幾何学の原理となるものであり、また西洋近代の美術表現の展開がはかられた空間であるわけです。しかしそれはわれわれ生身の人間が現実に観ている空間の表象ではありません。我々自身の肉眼を通したリアルな空間認識とはどのようなものか、奥行きとかもののヴォリューム感とか言われるものの正体は何であり、それは人間の認識作用においてどのような意味を持つのか、といったことが、私の場合の美術造形物を観賞することの意味であるというふうに言うことができます。
 そしてこの問いの中で開けてくる造形表現世界のヴィジョンこそ森さんが持ち出してきた「ヴォリューム(volume)」であり「ムーブマン」であり「渦巻き」であるというわけです。(つづく)    (H.S.)

 

 

森さんのブログ
https://onelineart.webnode.jp/l/new2/

 

 


【TOPIC Ⅲ】人間機械論[3]
「人間は機械が見る夢」

 

 19世紀後半に新たな盛り上がりのあった人間機械論は、産業革命後の工業的な生産方式の本格化とか、学問世界での科学的な方法への認識の高まりといった時代の趨勢も影響しているようです。フロイトが始めた精神分析学もその一つで、人間の心理についての初期の研究は心的な現象を数量でとらえて機械論的に観測する方法から始めています。精神分析学の端緒となった最初の著作『夢判断』は、機械論的方法から意味論的方法へと方針転換することによって達成されていくのですが、〝夢〟の作動というのも機械的といえば機械的と言えます。それは、夢を見るのは決して人間の意志とか自覚的な意識とかいったもので創作されるのではなく、一種の意志を離れた自動的な機構によって見させられるということを考えると思い当たることです。フロイトがたどった精神分析学の研究の深化は、意識下(無意識)の世界にいくつかのカテゴリーを設定して、それらのいわば機械的な相互作用として深層心理のはたらきをとらえていくものでした。
 考えてみれば、人間の身体作用というのも主体の意志とは関係なく、いわば自然から授けられたように自動的に作動していることが多いように思います。身体の動きそのものが、人遂に共通した関節や筋肉の仕組みで決定されていてされていて、自由意思で動かせるのはかなり限定されていると見ることもできます。そのように考えると、我々が重要視している自由意志というものがそもそも何なのかということが改めて問われてくるようにも思えてきます。
 私はシュルレアリズムの思想とヴィジョンを「人間は機械が見る夢」と解釈しています。つまり物質世界と精神世界のある意味共通するところを見出していこうとする。そこが、工業的な生産様式を基盤とする都市文化が発見していった新しい人間(生命)観であったように思います。 (H.S.)

 

 

 

フランシス・ピカビア 1915年の作品

グッゲンハイム美術館蔵(ニューヨーク)

NETで見つけた解説では「性的な出来事を機械化された冷静なバージョンで描いているのではと考えられている」とあります。

 


【TOPIC Ⅳ】『切手のゴッホ』
日本経済新聞の文化欄に著者の文章が掲載されました。

 

 前回新刊紹介でお知らせした『切手のゴッホ』の著者篠原俊光さんの文章が日本経済新聞の文化欄に掲載されました。(右の写真)
記事の内容は、前回紹介したときの文章と共通するところが多いですが、こんなことも書いてますというところをちょっと引用しときます。
「ゴッホも切手はカリブ海諸島と西アフリカに集中する。画家が活躍したフランスが旧宗王国というのも関係するだろう。多くが観光収入目的、みやげ用や記念切手の類いだ。一方で、英国、スペイン、旧ソ連時代を含むロシアなどからゴッホの切手は出されていない。ゴッホはこれらの国でも人気が高い画家だけに不思議だ。」

 

 

日本経済新聞(4月8日付)より

 

『切手のゴッホ』のサイトは
こちら 

 


編集後記
かたちブックスめるまが便  第11号
発行メディア:工芸評論「かたち」 https://katachi21.com/
発行サイト:かたちブックス
Copyright(c)Hiroshi Sasayama 2024
本メールの無断複製、転送をお断りします。

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