第12号[2025年5月9日発行]
目次
【TOPIC Ⅰ】よもやま話
大阪万博とExpo’70後の広告デザインの話
【TOPIC Ⅱ】人間機械論[4]
機械を操作しているのはだれか?
【TOPIC Ⅲ】空間の奥行き[3]
遠近法以前の奥行き表現――渦巻文様と組紐文様
【悦ばしきコトノハ】
【読者投稿】
前号の記事に対する感想
【TOPIC Ⅰ】よもやま話
大阪万博とExpo’70後の広告デザインの話
今、大阪で万国博覧会が開催中ですが、私はあまり関心がありません。街中の樹木を無節操に伐採していったり、伝統文化を蔑ろにしたり、被災地の復興を顧みないような自治体で開催sれる万国博など、心のこもらないハリボテイベントにしか見えないからです。
1970年にも大阪で万博がありました(Expo’70)。当時私は京都で学生生活を送っていましたが、パビリオンに入るまでに何時間も待たされるということも聞かされて、足を向けようという気にはまったくなりませんでした。そのうえ、私の関心領域であった現代美術のアーチストが万博に参加しているということを聞いて、がっかりしていたこともあります。岡本太郎の太陽の塔からは、「岡本自身は爆発しないんだな」と思ったし、ホアン・ミロが万博を見に来て、太陽の塔には関心を示さなかったという噂が流れたりしたのも、さもありなんと聞いてるだけでした。これらのことがあって現代美術に失望していったことが、私を工芸の世界に向かわせた一つの動機になったと思います。
それにしても1970年という年は、巷間に言われているように、日本の戦後史の大きな節目となった年でした。その変わりようについてはいろいろな言葉でさまざまに表現されますが、ここでは、価値観の一元性から多元性への変化という言い方をしてみたいと思います。70年までは、芸術活動と商業活動は截然と切り離され、芸術が商業に組み込まれることは堕落であるといった価値観が支配していました。あるいは、工芸は職人仕事であって、創作活動としては不純であるというような言い方がなされていました(私自身も、当時はどっちかというとそっちの方の考え方に与していたのではありますが)。
70年以降は、そういった一元的な価値意識が崩れて、アートとコマーシャルとはその後数十年をかけて徐々にその壁を溶かしていきました。工芸の世界も徐々にアートの世界に迎え入れられるようになった、というかアートの方が工芸に接近していったと言えるかもしれません。そのような世相の流れのなかで、1980年代後半から1990年代前半というそ時期は、一つの文化的ピークが形成されていたのでした。
アートとコマーシャルが融合していく形での創作活動が展開していく領域で、その先端を切っていたのは広告、ファッション、インテリアデザインのジャンルであったかと思います。各々のジャンルに世界的に活躍するデザイナーが生まれ、そしての周辺には数多くの創造性豊かな才能が花開いていたのです。その状況は、たぶん、あの浮世絵を生み出した江戸時代の文化文政期の文化的絢爛に匹敵すると私は思います。
かたちブックスでは現在、1970年代以降の商業デザインシーンにおける代表的な活動を解雇する本を、コピライターの第一人者とされる長沢岳夫の行跡を軸に制作しています。生成AIが切り開きつつある新たなものづくりの展望のなかで、人はいかにこの時代を生き抜いていくか。広告デザインの一つの頂点をなした時代を振り返ることで、その手がかりあるいは拠り所を探り出していきたいと考えています。 (H.S.)
【TOPIC Ⅱ】人間機械論[4]
機械を操作しているのはだれか?
人間機械論に対しては昔から生気論という主張があって、それは有機的なヴァイタリズムのようなものが生命の本質をなしているという考え方をします。人情や心のはたらきは言うまでもなく、個人の自由意志といったこともそのような生気論の考え方を支持するエッセンスとして考えられる傾向があります。
最近の私は、どちらか一方を支持するというよりは、100%機械論でもなく、100%生気論でもないというふうに考えるようになってきています。どちらか一方を正しいとするのではなく、人間の成り立ちは両者を両端とする線上のどこかに位置づけられる、というふうに考えるわけです。そうすることで、人間観の範囲が広く深くなっていくように感じられてきます。つまりその動きやはたらきが機械的に規定されている部分と、自由意志によってアレンジされたり拡張されたりするといった部分を認めることで、人間の活動や思考を観察する範囲が深められていくように感じられるのです。
それに個人の主体性ということも、機械論を取り入れた考察によってより豊かなものが収穫できるように思います。
たとえば、人の生き方が個人の主体性を超えた力によって操作されているように感じられる場合、「主体性を超えた力とは何か」を考えると、そこに神とか客観的な超越者を想定するケースと、あくまでも心身のはたらきを規定する生理的・構造的なシステムを想定するケースとが考えられます。一方の、神や超越者を想定するケースは、結局「自己の外に在る力」によって操作されているという考え方に至り、ある意味、自分の主体性を超越者に預けていくことになります。それに対し、心身の生理的・構造的なシステムを想定するケースは、それを自分自身の存在条件として受け入れ、そこから「いかに生きるか」が考えられていくわけです。
人生の妙味をどこに求めるかについては、まあ人それぞれだろうとは思いますけどね。 (H.S.)
【TOPIC Ⅲ】空間の奥行き[3]
遠近法以前の奥行き表現――渦巻文様と組紐文様
平面上での奥行表現の方法について、よく知られているのが西洋絵画の遠近法で(東アジアの水墨画には別な方法がある)、ルネッサンス期(14~16世紀)に新案され発展していったとされています。ではルネッサンス以前は、空間の奥行き表現はどのようになされていたんでしょうか。
人類の造形表現に見る奥行き感は、歴史を遡るほど直観的でそしてより深く感じられます。それが端的に感じられるのは、歴史学では“古代”と区分される時期に地球上の文明地帯に広く観察される〈組紐文様〉による装飾表現であり、“原始(乃至、先史)”と区分される時期に観察される〈渦巻文様〉をモチーフとする装飾表現です。
〈組紐文様〉は、一本の紐が限定された空間(支持体)のなかを「宙空を飛翔する魂魄の軌跡」を描くように、何重にも重ねられて描かれることによって奥行きが表現されます。重ねて描かれる紐が交差する点で、前面の紐は後方の紐を隠してそこに奥行き感が発生します。そしてそれが何重にも繰り返されることで、奥行き感が深められていくわけです。奥の深いところには魂魄やら精霊やらが潜んでいるような神秘感が漂います。
古代の〈組紐文様〉という装飾モチーフは、その起源が原始時代の〈渦巻文様〉にあるというふうに私は考えました。渦巻文様は線(紐)状のものが中心の点へ収束していく形とも、中心から外に向かって拡散していく形とも見れます。この線(紐)は宇宙(生命的なものの)のエネルギーに関する原始の人々の想像力を象徴しているように解釈されることが多いですが、私もそのように感じます。そして渦巻の形は、空間の奥行き感が表象されているとも解釈してみました。
人類の装飾表現史は、渦巻から始まって、自然紐空間の秩序への認知が徐々に深化していくにつれて、次第にゆるやかに解けていって組紐の形となり、ついでに言えば組紐がさらに一本の紐に延ばされて縞[ストライプ]模様(中世~近世 紐はもはや交差せず、西洋で線遠近法が新案される)となり、更に縞がちぎれて水玉(アトム)文様(現代)化していく、というのが、私が考えた「人類の装飾史」の概要です(水玉のモチーフが集合して、新しい渦巻を形成していくということを、未来への予測として考えています)。
奥行き認識は空間(自然)の認知の在り方として、人類の文明の発祥時から成立していたということを、ここでは言っておきます。 (H.S.)
【悦ばしきコトノハ】
「見た目青一色に見えるかもしれませんが、私には極彩色に見えてます。」
(西村昌彦 NHK-ETV “no art, no life”より)
西村昌彦さんは以前は東京の建築事務所に勤めていましたが、交通事故に遭って高次脳機能障害という名の障害を負いました。以来生地にもどって今は絵を描く日々を送っています。その絵は青一色の抽象画です。青のモノトーンで濃淡の調子で形を表現しています。青一色とはいえ、障害を負って視覚や聴覚が過敏になった西村さんには極彩色に見えているのだそうです。陰翳の調子によってディテールがさまざまな色に見えるということでしょう。そういう西村さん曰く、「人も一見一様に見えても、一人一人陰翳のちがいで個性を作っている」。
西村さんの言葉は、一様に見えてはいてもその内は無数の“差異”に満ちている、ということがこの世界の成り立ち方であることを示唆していると思います。。 (H.S.)
【読者投稿】
前号の記事に対する感想
大蔵達雄[漆器作家]
◎海野次郎さんとの対談
ユーチューブの「日本の芸術を語る」を、興味深く拝見しました。 お二人の民藝論は面白かったのですが、笹山様は「 手仕事と工業生産の厳密な違いを言うならば、 それはロットの差であろう。」 と述べられ冷静な見方をしておられると感じました。
また、美の主体をなす権力構造の違いにより、「丸、楕円、 ひょうげもの」と許容される形が変化するというお話は、 とても驚きであり説得力もありました。ただ私としては、 ひょうげものも認める日本文化の懐の深さは、 神道の影響も加味されているのではと思います。「八百万の神」 や「万物に神宿る」などは、 古代的なアニミズムかもしれませんが、 日本人の身体感覚に根付いているのではないかという気がします。
◎人間は機械がみる夢
夢は人間の行為なのに逆転したようなタイトルだなぁと、 首をかしげながら読んでみました。すると、 シュルレアリズムの思想とヴィジョンについての解釈だということ で、大いに納得しました。 現代社会の中で人間と機械の主体と客体が入れ替わってしまったか のような異様な世界観、 それは人間と動機が入れ替わってしまったかのような行動経済学な どにも当てはまりそうだと、ふと思いました。
編集後記
かたちブックスめるまが便 第12号
発行メディア:工芸評論「かたち」 https://katachi21.com/
発行サイト:かたちブックス
Copyright(c)Hiroshi Sasayama 2024
本メールの無断複製、転送をお断りします。
バックナンバー
メールマガジン読者登録
めるまが発行のつどの通知を希望される方は、上記「読者登録」からお申し込みください。
その他のお問い合わせも「読者登録」から「メッセージ」欄をご利用ください。