第14号[2025年7月18日発行]
目次
【TOPIC Ⅰ】よもやまばなし
〝花〟をめぐる話題
--中川幸夫さんの花、巖谷國士さんの花
【TOPIC Ⅱ】YouTube
海野次郎さん、田中稔郎さん(GF主宰)と「へうげものは現れる」というタイトルで鼎談しました。
【TOPIC Ⅲ】空間の「奥行き」〔5〕
彫刻家アルトゥーロ・マルティーニの問い
「なぜ彫刻は一個のリンゴをつくることができないのか?」
【悦ばしきコトノハ】
「人はパンのみにて生きるにあらず」
【TOPIC Ⅰ】よもやまばなし
〝花〟をめぐる話題
--中川幸夫さんの花、巖谷國士さんの花
現代の工芸の世界には大きく分けて伝統工芸と呼ばれる領域と現代工芸と呼ばれる領域があって、私が立脚したのは主として“現代工芸”領域です。その業界でのほぼ半世紀におよぶ活動の中で得られた最も大きな成果のひとつは、前衛いけばな作家の中川幸夫に親しくお付き合いさせていただいたことがあります。1986年ごろから2006年ごろまでの約20年ほどの間、謦咳に触れさせていただきました。
中川さんのいけばな思想は「花は切るところから始まる」という命題に端的に表されていて、「切る=命を預かる」ということと自らの命を切り結ぶところで花の美の本質を露わにしていくような生け方をしていました。その思想と実践を通して私は花の観方を大いに学びました。
中川さんは2012年に天寿を全うされ、以来、10年間ほど私はナカガワ・ロスの状態にあったのですが、2023年にフランス文学者巖谷國士さんがツイッターに投稿されている花の写真に出会って、中川さんの花の美へのアプローチに匹敵するとも言える世界を愉しむことができるようになりました。
巖谷さんはシュルレアリスム研究の第一人者として著名な方で(代表的な著書は『シュルレアリスムと芸術』)、花の美の捉え方もシュルレアルな要素をたっぷりと含んでいて、リアルでありながら幻想的な美しさを引き出していかれます。レアルとシュルレアルが次元の異なった世界としてあると言うよりは、むしろレアル(自然)の中にシュルレアルが潜んでいるといった趣きで、日常の身近な光景がシュルレアルな美として立ち現れてきます。
そんな写真を撮るにはよほど精密な機能を有したカメラが使われているかと思いきや、これがなんと誰でも使っているIphoneに内蔵されたカメラで撮っているということです。やはりいい写真というのは、突き詰めれば道具ではなくて、ハートで撮るものだということがわかる良い例と言えるでしょう。
巖谷さんは、自分が撮った画像を“写真”とは呼ばず、“光画(ひかりが)”と呼んでいます。つまり“光で描いた絵”ということです。このあたりに「自然と機械と人間」の関係にこだわるシュルレアリストとしての面目が躍如しているように私には感じています。 (H.S.)
【TOPIC Ⅱ】Youtube
海野次郎さん、田中稔郎さん(GF主宰)と「へうげものは現れる」というタイトルで鼎談しました。
水墨作家の海野次郎さんのYoutube「日本の芸術を語る」の新作が公開されています。
今回は「「へうげもの」は現れる」というタイトルで、空間デザイン工房「GRID FRAME」を主宰する田中稔郎さんと私がゲストに招かれています。
「へうげもの」というのは現代語表記では「ひょうげもの」で、今では、桃山期の武将にして茶人の古田織部を」主人公にした」マンガ本で知られるようになってますが、歴史的には、桃山期の茶会記に記されている古語で「歪みのある」とか「破格の」といった意味があります。要するに織部がプロデュースした」茶道具の特徴を表現する言葉です。
前回の「日本の芸術を語る」が、やはり私がゲストで「民藝」をテーマにして海野さんとしゃべった中で「へうげもの」に話題が及んで、今回はそれを引き継いで、田中さんを加えてさらに話を深めようとしたものです。
タイトルは「「へうげもの」は現れる」というものですが、テーマは「人間はどこへ向うのか………どこまで人間であり続けられるのか」と、思いっきり大きく構えております。私はともかく、田中さんの活動はある意味このテーマを語るにふさわしいアクチュアリティを有しており、大変興味深いものです。やや長尺ですが、是非聞いていただきたいと思います。
「想定外のものとどう出会えられるか。グリッドフレームはその方法論のベースになった。」(田中稔郎) (H.S.)
前回の「日本の芸術を語る」(民藝をめぐっての対談) および
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【TOPIC Ⅲ】空間の「奥行き」〔5〕
彫刻家アルトゥーロ・マルティーニの問い
「なぜ彫刻は一個のリンゴをつくることができないのか?」
近世西洋が開発した遠近法が西洋絵画における写実表現のベースをなし(これを私は“だまし絵”と呼ぶわけだが)、近代絵画はそれを解体して“絵画の真実”(絵画は平面〈二次元空間〉上に描かれるイマージュであること)を見出して行く。その“絵画の真実”において改めてイリュージョン(精神のリアリティ)としての“奥行き”の探求が続けられていったのが現代絵画であるというふうに私は考えているのですが、同じことが彫刻(立体表現)についても言えるのではないかと思います。
絵画の本質(真実)は“奥行き”というイリュージョンを平面(二次元空間)上に顕現していくところにあると考えるならば、彫刻(立体)表現の本質(真実)は三次元空間の中に“奥行き”(=ヴォリューム)というイリュージョンを実現していくことに他ならないということになります。ところが不思議なことに、三次元空間の中で普通に三次元(立体)的造形を試みても、ヴォリューム感は生まれてこない。自然物が産出する果実(たとえばリンゴの実)を、たとえ生のまま型どりして粘土成形しても果実から実感されるヴォリューム感は再現できません。なぜか。そこには“ヴォリューム”というイリュージョンが欠けているからというのが、その理由ではないかと私は考えます。
森佳三さんが立体表現についてのインスピレーションを得ている彫刻家に、20世紀前半に活動したイタリアの彫刻家、アルトゥーロ・マルティーニという人がいます。この人が遺した『彫刻、死語』という著作の中に、「なぜ彫刻は一個のリンゴをつくることができないのか?」という問いが発せられています。その著作を解説した森さんの文章があるのですが、マルティーニの彫刻的探求のテーマを森さんは、「「物体」が生み出す「空間」の存在を感じさせる彫刻の実現を試みていたのである」としています。
問題は、要するに、三次元空間の中に“ヴォリューム”というイリュージョンをどうつくっていくかということであると私は思うのですが、そのヒントとなるものを、マルティーニの作品からはなにがしか感じられるような気がして大いに興味をそそられます。この連載の始まりのきっかけとなった森さんの、自作を解説した文章で人体表現の中のS字構造は、まさしく「「物体」が生み出す「空間」の存在を感じさせる」技法のことをいってるのでしょう。
しかし残念ながら私の探索もここから先に展開していくことができません。私はマルティーニの作品を写真でしか見ておらず、実物を見ていないので、マルティーニが試みようとしたことを実感的に掴めないのです。
「彫刻表現の真実」にアプローチするプロセスはここでいったん擱筆するほかありません。今後は、森さんの「ヴォリューム表現」の技法を探求する実作あるいは論考を期して待ちたいと思います。 (H.S.)
[参考文献]森 佳三著〈「彫刻、死語」解題〉(書肆九十九合同会社刊『彫刻2』所収)
【悦ばしきコトノハ】
「人はパンのみにて生きるにあらず」
この言葉を口にしたことがない人はいないのではないかと思えるほど、よく知られた新約聖書の言葉です。今でも何かの折にふっと口の端に出てくる、普遍的な言葉とも言えます。このごろも世の中の在り様を見ていると、私の中でこの言葉がしきりに浮上しては消え、消えては浮上してきます。
私が社会人として生活するようになったのは1970年代の半ばごろですが、その当時、この言葉は「だからまず生活の資を確保することが重要」というふうに解釈され、「何をやるにしても、食えなければ意味がない」というふうな言い方がよくされていました。その種の訓戒を、私周囲の知人たちから何度も聞かされた記憶があります。
この当時というのは、1970年の日米安保条約反対運動や大学紛争の挫折によって政治の季節が終焉し、戦後民主主義の理念に陰りが差し始めた時期でありました。「理念を語るよりも、当座のパンを」というところに言葉や行動のリアリティが求められていくようになっていたのです。
さて今はというと、国内では今まさに参議院議員の選挙が間近に迫っていて、長く続いた自民党一党支配の崩壊や排外主義の台頭、国際社会では戦争やシオニズムの暴威やアメリカの恫喝外交などによって、人類の将来が暗い影に覆われる様相を呈してきています。
私が今感じていることは、これらの現象に本来の意味での“政治”のたたずまいということがほとんど見られなく、ただひたすら「生活の資の確保」だけを政治的課題として、その損益を目くらまし的にアピールして自己保存を図っている姿です。そのような光景を目の当たりにしつつ、私はここで改めて「人はパンのみにて生きるにあらず」ということを再考する時ではないかと考えます。政治のリアリズムというのは、ただ「生活の資の確保」に従うばかりでなく、人間の未来をどう切り開いていくかという“理念”の標榜ということも、もう一方の柱とするべきでしょう。
現代社会は物質的な暴力の圧政の下、“業苦の坩堝”のような趣きがあって大変な時代ではあるとは思いますが、その中にあってもやはり、理念を高く掲げるという精神の在り方を求めていく努力も放棄すべきではないと思います。
今の時代はそのこと自体が一つの戦いとして自覚しなければいけなくなっているのですね。 (H.S.)
編集後記
かたちブックスめるまが便 第14号
発行メディア:工芸評論「かたち」 https://katachi21.com/
発行サイト:かたちブックス
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