WEB版『かたち』 since1979

井上まさじ[絵画]

 

工芸のアート性、アートの工芸性

 

 

                    (左作品の左上隅拡大・紙にインク)

 

      

上の3作品はいずれもボードにアクリル絵の具

 


 

[論評——自然のなせるわざか人のわざか]
 「絵画の物質化」という言い方があります。具象、抽象を問わず平面上に何がしかのイメージを定着させていく行為を「絵を描く」とするならば、平面の支持体である紙やキャンバスも「絵を描く」という意識に取り込み、筆という道具(物体)で絵の具という物質を紙やキャンバスの上に実在させていく。そしてそれら物質的与件と作者の行為の結果として実現し、そこに特定の意味づけを求めないような意識の下で絵画を制作することを「絵画の物質化」というふうに定義しておきます。
 また「絵画の論理」という言い方もあります。井上まさじは若年時に、筆先を下ろしていって紙に触れたときに、この筆を右方向に動かすか左方向に動かすのかの判断がつけられなくなり、以来数年にわたって絵が描けなくなったというエピソードがあります。この話が伝えることは「絵画の論理」というものが発動し始めたということです。その「絵画の論理」の何たるかの疑問を抱いて、井上の「絵が描けない」時期が挿入されてきたと解釈できます。
 「絵画の物質化」や「絵画の論理」という意識は、早い人であれば1950年代ぐらいからその萌芽が認められるようですが、1970年代80年代あたりから美術界の意識の表面に浮上し始め、今世紀に入ってからは、現代絵画のひとつの傾向として認められてきているようです。
 しかし現代絵画の先端部はすでに「絵画の物質化」や「絵画の論理」の次のステージに入りつつあるように、筆者は感じています。たとえば井上まさじの創作は、“絵画”をひとつの客観的な物質の世界と見て、物質としての絵画に制作者の行為がどう関わり得るか、というふうに問題意識を立てているかのようです。彼は「絵が描けない」時期を通過して、平面の世界に再び向き合い始めたとき、画面の左端上から、細いペン先で点を打っていくとか直径1mmぐらいの丸をひたすら描いていくとか、ということから始めました。その行為は現在まで、すでに30年近い年月を経て、毎日1時間続けてきているとのことです。
 この行為は紙とペンとインクだけの物質的与件から、やがてアクリル絵の具の導入へと展開し、そして今日に至っているわけですが、井上の創作手法の総体が有する意味合いを評論的に解き明かしていこうとすると、筆者の中では膨大な言葉――それこそ物質・自然・意識・時間・観念の諸カテゴリーにわたってミクロからマクロに至る宇宙論的なイメージを語る言葉が繰り広げられていくことを予感します。
 井上の絵画は、一部の人々によって“工芸的”と評されたりします(今日の絵画の流行として、いわゆる“工芸的”に制作されているものが氾濫していることは確かです)が、その場合の“工芸的”を筆者は「絵画の物質化」「絵画の論理」といったイメージで捉えたいと思います。「絵を描く」というよりは「絵画という世界を創っていく」というイメージです。
 絵画を絵画たらしめる根源的な物質的与件は“平面性”であると筆者は考えています。その“平面性”に制作者の行為がかかわることによって、物質と意識のドラマが展開されていく。これをここでは「平面を創る」と定義することにします。絵画とは「平面を創る」作業にほかならず、それは工芸的創作であると同時にアート的な表現行為であると言えるものです。

[プロフィール]
1955年 愛知県豊川市生れ
1986年ー1989年 個展 LABORATORY/札幌 1990から現在まで毎年
個展 ギャラリーミヤシタ 新作発表
1996年 個展 GALERIA KUCHINA SBWA/ポーランド・ワルシャワ
「北海道・今日の美術 語る身体・10人のアプローチ」北海道近代美術館/札幌
1998年  「知覚される身体性」 芸術の森美術館/札幌
2006年 個展「画層の堆積」 マキイマサルファインアーツ/東京
2008年 個展 ギャラリーエクリュの森+土日画廊(静岡・三島 東京・中野)
2009、10年 個展 土日画廊

[参考文献]
かたちの会会誌No.06 〈アートを愉しむポイント講座第6回 井上まさじの絵画〉
かたちの会会誌No.07 〈「人のなせるわざか、自然のわざか」井上まさじ論 エッセー〉
かたちの会会誌No.14 〈ものの美シリーズ4・井上まさじの世界「二元的世界を超えるイマージュ」〉

[リンク](準備中)