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KATACHI BOOKSメールマガジン21

第21号[2026年3月27日発行]
目次

【TOPIC  Ⅰ】新刊のお知らせ Ⅰ

ガラス造形作家大村俊二さんの作品集
『Omura Shunji Glass Works 1991-2005』を発行しました。

 

【TOPIC Ⅱ】 よもやまばなし(出版その後)

「What is Copywriting?」をめぐる一考察
俳句的表現の世界に通じる『長沢岳夫作品集』余話

 

【TOPIC Ⅲ】POST KOGEI(脱「工芸」)

これからは、脱「工芸」(2)
若い人は私の「工芸概論」に耳を傾けなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【TOPIC  Ⅰ】新刊のお知らせ Ⅰ

ガラス造形作家大村俊二さんの作品集

『Omura Shunji Glass Works 1991-2005』を発行しました。

A4版   210頁/3月20日発売開始/価格4,400円(税込)

大村さんの作品出版のお知らせは前号でもしていますので、ここではちょっと裏話的に、編集意図の一端を披露してみます。(内容の概略はこちらを参照ください。)
大村さんの本を作るに当たって、編集コンセプトとして「現代ガラス造形のバイブルを目指す」という目標を立てました。大村さんのガラスは無色透明ということを最大の特徴とし、技法は宙吹きとガラスの自律的な立体造形、という点からすると、ガラス素材による造形表現全体の眺望の中ではごく一部の技法と素材表現に絞られているわけですが、しかしそれでも「現代ガラス造形のバイブルの書を目指す」という目標が立てられるのは、大村さんの創作がガラス造形の根源性に触れているからであり、またその創作の方向が究極の形を求めていこうとする志向性を感じさせるからにほかなりません。
ガラス造形の素材の設定の仕方や技法の種類はさまざまにあるにしても、無色透明性と流動性(固体でありながら物質組成としては液体であること)はすべてのガラス表現を根源付けているものであり、そしてその究極的な方向性を規定しているものである、というわけです。
この根源性と究極性のあいだで、大村さんはいくつかのカテゴリーをたてています。それを列挙するならば、
1.大物制作、  2.宙吹き制作、  3.ソリッドワーク(ガラス素材だけで彫刻的造形を成立させる)とパーツ思考(数種のユニットを組み合わせた立体表現)、  4.さまざまな実験的試作、  5.宙吹きによる空洞(器)的造形と塊り(ソリッド)とを組み合わせたオブジェクト群、  6.実用と遊びの世界を表現するプロダクト世界、以上の六つです。
構成的観点から、全体の流れを神話的な世界になぞらえて、この六つのカテゴリーを並べていきました。イントロの「はじめに」は「ガラス素材は人工素材である」という規定から始まります。これはキリスト教新薬聖書のヨハネ福音書の「初めに言葉あり」に倣ったものです(人工素材=言葉)し、その左ページには、大村さんの大物作品の超クローズアップの写真で、『古事記』の国生み神話に描かれた原初の海(水)のイメージを表そうとしたものです。そして本編の初っ端は大村さんの大物制作の現場で撮られたガラスの火の玉で「世界の創世」=「物質的世界と創造活動の始まり」をイメージし、それが徐々に形(現世)を表していく過程として、その後のページ構成を立てていきました。
この流れの中で、ガラス造形の基本的なカテゴリー、すなわち〈無色透明〉〈流動性〉〈ゆらぎ〉〈うつわ(膨らみの形)〉〈オブジェクト〉〈光のベルト(帯)〉〈“刀”立つ形〉〈うつわ(開く形)―花〉〈機能と遊びの形〉などといったカテゴリーを展開していく構成をとっています。物質と精神の世界を創り出していったという、ナラティブ(お話)に仕立て上げた作品集とも言えるものです。
(H.S.)

 

【TOPIC Ⅱ】 よもやまばなし(出版その後)

「What is Copywriting?」をめぐる一考察

俳句的表現の世界に通じる『長沢岳夫作品集』余話

 

『長沢岳夫作品集』は戦後日本の商業デザインの記念碑的な本にまで育ってきましたが、出版後にも長沢さんへのインタビューや記念展覧会での反響を通して、「コピーライティングとは何か」ということを考える時間となりました。単に「コピーライトをどう作るか」というだけではなくて、言語表現の一つの分野における問いとしての「コピーライティングとは何か」ということです。
長沢さんのコピーライティングの特徴として、その文言自体からは何の商品の宣伝であるかが予測できないものが多いということがあります。たとえば「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」とか「どっちが人間らしいのか、判らなくなってきた」とか「ランボオあんな男ちょっといない」とか。こういった文言が四角いジャングル(ポスターとかモニター、あるいは“人の心”という舞台、です)の中でビジュアルと衝突し、ハレーションを起こす、そして(たとえばパルコという)商品に着地する、といったっしかけを創り出しているように感じられます。
で、最近思いついたのが、その仕掛けの俳句的な組み立て方です。俳句における上句、中句、下句に倣って言えば、まずビジュアルがあって(上句)、コピーがきて(中句)、そして商品が現れて(下句)着地する、という組み立てです。俳句の場合、取り合わせの意外性ということが、わずか十七文字で表される言葉の世界に時空の拡がりや奥行きを一挙に生み出す効果をもたらします。長沢さんのコピーライティングにはこの意味での、商品と画像と言葉の出会いの意外性の創出ということが秘訣になっているように思われます。これは人間にしかできないことであって、AIがいくら逆立ちしても為しえない技ではないでしょうか。
このことで、河尻亨一氏(広告メディア編集者/作家)が『長沢岳夫作品集』に寄せた文章(「決闘コピーライティング論」)の中で興味実験とそこから導き出された結論を報告しています。
氏は、サントリーオールドの「羊飼い」のビジュアル(1979年作)をAIに見せ、ウイスキーのコピーを考えさせたそうです。結果は、「いわゆるウイスキーの“広告っぽい”コピーはいくらでも出てくるが、なんとも広告臭い。これでは風が起きそうもない。」そして以下のように結論づけるに至っています。
「「ビールは透明な音楽だ」はAIにも書ける。この言葉は方程式上にある。しかし「どっちが人間らしいのか判らなくなった。」には到達できないだろう。(中略)なぜならそこには“私”がないから。“私と他者”との決闘もないから。」
さらに続けて河尻氏はこう書いています。
「こんなディストピアな社会において僕たちが、表現者としてサバイブするためには、もはや“ランボオ”を目指すしかない。(中略)長沢岳夫のコピーライティングはすぎさった過去ではない。私はここにクリエイティブの本来と未来を見ている。」
私は文中の“ランボオ”を、“俳句”に置き換えてみたいと思う。人間にしか書けない俳句、これが人間の未来を救うような気がする。俳句と、長沢さんのコピーライティングは、表層文化的でありながら人間の歴史の深いところで繋がっているような気がします。
(H.S.)
●大村俊二作品集の概略はこちらで。

(購入申し込みもできます。)

 

中身見本

イントロ「はじめに」の見開き

 

大物制作のドキュメント(写真構成)

 

〈花咲く〉宙吹きの技法で「開く形」に至る

 

 

●『長沢岳夫作品集』の概略はこちらで。

(取り扱い書店の一覧も見れます。)

 

出版記念催事でのサイン会のスナップ写真

かたちブックスでは著者の同意の元に出版記念の催し(お祝いの会、パーティなど)を開催しますが、いつもサイン会を開いて、来場者の目の前で本にサインを入れてもらう時間を取っています

サインを入れる間、著者と交わすひと言ふた言が、来場者(著者のファン)にとってはとても楽しそうでdス。その様子を見るのは私(編集者)にとって、いわゆる「編集者冥利に尽きる」時間に感じられます。

 

大村俊二さんのサイン会の様子

 

出版記念展の会場でサインを入れる長沢さん

 

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【TOPIC Ⅲ】POST KOGEI(脱「工芸」)
これからは、脱「工芸」(2)

若い人は私の「工芸概論」に耳を傾けなくなった。

某工芸技術研修所で「工芸概論」と名づけられた私の講義を聴く研修生たちは、さまざまな年齢層、さまざまに社会経験を経てきた人たちで、学びに来た目的意識も、技術習得を目指してゆくゆく関連職業につくことに特化しているわけでなく、関心を抱いて学びはするが、趣味とか余技として身につけようという人も何割かの確率で含まれています。おおむね、将来どうしていくかについては未確定で、ニュートラルな状態にいる人がほとんどと言えるでしょう。
そういった人たちに向かって、「工芸概論」という名目のもと工芸について語る私のスタンスは、「工芸技術を学ぶ境遇に恵まれたのだから、この機会に、日本には「工芸」という独特の文化領域があることを意識の中に取り込むのも無駄なことではない」といったようなものです。「工芸とは何か」を強制的に学ぶべきだとするのではなく、物を作るシーンにおいて素材や技術が、日本人の生活と美意識の下でどのように捉えられ、どのようにシステム化され、そして逆に、日本人の生活と美意識を形成していくことにどのように貢献してきたのかを、現代の生活とアートの感覚から説いていこうとしてきたということです。ところがそういった私のスタンスも含めた「工芸概論」という言葉に対して、ここ数年の特に若い人たちが、「私にはカンケイない」という無関心のまなざしを向けてくるようになったというわけです。
「私にはカンケイない」が「物を作ることは楽しい」と彼らは主張している。このような事態は、これまでにも無かったことではありません。「現代工芸」と呼ばれる分野はむしろそういった感覚から生まれてきているとも言えます。しかし「現代工芸」にはその呼び方からもわかるように、「工芸」をその出自としているのであり、少なくとも尾てい骨あたりに「工芸」という分野の余韻を遺して、「工芸」と「アート」、そして「工業」や「デザイン」といった隣接領域とのせめぎあいの中で創作行為が展開されてきたと言えます。評論もまたそういった路線に即して、その役割が認められてきたわけです。
それが今、そのような前提そのものが否定(もしくは無視)されようとしている。今の若い人たちの反応が私にはそのように感じられ、それをどう受けとめていくかを考えざるをえない、というふうに私は
感じています。そうでなければ私は、現代創作のシーンから消え去っていくほかありません。
(H.S.)

 


編集後記
かたちブックスめるまが便  第21号
発行メディア:工芸評論「かたち」 https://katachi21.com/
発行サイト:かたちブックス
Copyright(c)Hiroshi Sasayama 2024
本メールの無断複製、転送をお断りします。

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