第15号[2025年8月22日発行]
目次
【TOPIC Ⅰ】よもやまばなし
「心でシャッターを切ったのが言葉になる」
【TOPIC Ⅱ】YouTube
前回の海野次郎さんのYoutube「日本の芸術を語る」
新作鼎談「へうげものは現れる」(前回のつづき 能登編)
【TOPIC Ⅲ】話題の展覧会
「記録をひらく記憶をつむぐ」東京国立近代美術館の
「戦争記録画」中心に構成された展覧会
前宣伝・広報無しの開催は、何故?
【悦ばしきコトノハ】
「事実というものはない。解釈があるだけである。」
F.ニーチェ『権力への意志』より
【TOPIC Ⅰ】よもやまばなし
「心でシャッターを切ったのが言葉になる」
かたちブックスでは現在、コピーライター長沢岳夫氏の作品集の制作が進んでいます。氏の活動は1960年代末から始まって2010年代後半に及びますが、70年代後半から80年代、90年代にかけてパルコやサントリーの広告デザインにかかわり、「裸を見るな、裸になれ」や「どこかにいる、未来のランボオが」といった名コピーを遺しています。作品集では長沢氏と河尻亨一氏(編集者、元『広告批評』編集長)に私も参加した鼎談を掲載していますが、鼎談中、河尻氏の「心でシャッターを切る」という発言が非常に印象的でした。長沢氏のコピーライティングの核心が言い表されていると思いました。
「シャッターを切る」という表現は、現象の時空の流れのなかで、空間の断片を一瞬の時間の中で切り取るといったことを意味していて、長沢氏のコピーライティングの核心を適格に言い表しているように思います。ここからさらに連想されてくるのは、俳句の表現世界です。俳句的表現は、芭蕉でも蕪村でも、はたまた山頭火でも、旅の人生の中にあって、出会った風景や起こってきた感慨を一瞬の断片の中に切り取って見せることを特徴としています。
私はまた、前回の当メルマガで紹介した巖谷國士氏の花の写真をも連想しました。そして、考えてみると、長沢氏のコピーライティングと俳句の表現世界と巖谷氏の花の写真(光画)には共通しているところがあります。それは、「歩く」ことが土台にあることであり、歩くことを生き方のベーシックなスタンスとした上での、その途次に出会う一瞬の出来事に、「ものの形」の生成を見出していこうとしていることです(長沢氏は仕事上の要請もあって世界の各所を歩いているし、巖谷氏は住いの近所や旅行先や、それに地球上に点在する古代遺跡やミュージアムや庭園を生涯を通して巡っています)。
「心でシャッターを切る」の「心」は「歩く」ことから養われてきた世界、と考えたいですね。山頭火の俳句に「分け入っても分け入っても青い山」というのがありますが、「歩く」という持続的行為は、この「青い山」を求めての旅路であるように思います。 (H.S.)
【TOPIC Ⅱ】Youtube
前回の海野次郎さんのYoutube「日本の芸術を語る」の
新作鼎談「へうげものは現れる」(前回のつづき 能登編)
後半は20分ほどの長さに短縮編集されていて、田中氏の能登被災地とのかかわりの報告がメインになっています。その底に流れているのは、「人類はどう生き延びていくか」を文化の再生という観点から論じていこうとするものになっています。
田中氏の報告の中に、石川県能都町宇出津のあばれ祭りについて報告したシーンがあります。以下、田中氏の発言の概略を引用しておきます。
「あばれ祭りには神輿を担ぐ人を選ぶという儀式があって、若者が30人ぐらい並んで順番に若頭にあいさつしていく。若頭は一人一人の挨拶を受けながら神輿を担ぐ資格があると判断した若者にタスキを渡すという儀式なんですが、何人かの若者にはタスキを渡そうとしなかった。タスキを渡されない若者は何度か「お願いします」と言って懇願するのだけれど、渡してもらえないまま引き下がってもう一度並び直します。でも、二度目に若頭の前に立ってお願いしても、やはり無視されてしまう。儀式とはいえ演技でもなくて、最後まで認めてもらえず無理矢理除外されてしまう若者が3人ぐらい出てくる。それを多くの人間が見ているんですね。僕はその儀式を見ていて、これは何なんだろうと思った。担ぎたいと願って並んだ若者にとってそれは一生に一度の機会であるわけで、それが拒絶されるというのはただ事ではない。私の前で見ていた長老が「ならぬものはならんのじゃ」とつぶやいてましたが、儀式を見ている人間も精神的になんらかの影響を受けないわけにはいきません。
祭りの儀式の中で、神輿を担がせてもらえない若者も、そのシーンを見ている人間も、その経験を通して、自然から災害を受ける過酷な状況に対しても自自身の力で立ち直っていかなければけないという教訓が、祭りの儀式の中に込められていると解釈しました。そこには能登で生きてきた先人たちの知恵が込められていると感じました。(この祭りの動画も鼎談の中で引用されています。若者たちの挨拶が繰り返されていくだけの平穏な映像ですが、静かな感動に襲われます。)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
あと、私のコメントと海野氏の最後のシメの言葉を引用しておきます。
私「田中さんが持ち帰った瓦なんかの瓦礫を見て最初に思ったことは、「国破れて山河在り」という漢詩(杜甫)の一句です。(ガザの瓦礫の山の映像を重ねつつ)瓦礫のすき間から草木の新しい芽が噴き出してくるイメージ(国が破れて山河が立ち現れる)。」
海野氏「世の中の価値観というのはいろいろあって、その一つにとどまってしまったらおしまい。いろいろある価値観の間に立ってどこにも留まらない、というのが山水のコンセプトだと私は考えている。いろいろあるという、その状況を創っていくことが山水画です。(中略)瓦礫状になったものが一つの形になっていく、そのことが希望になっていくんですね。」 (H.S.)
前回の鼎談はこちらで↓(約50分)
「あばれ祭り」について報告する田中氏の文章が掲載されています。↓
SOTOCHIKU通信Vol.14
GRID FRAMEのホームページ(SOTOCHIKU)はこちら
【TOPIC Ⅲ】話題の展覧会
「記録をひらく記憶をつむぐ」東京国立近代美術館
「戦争記録画」中心に構成された展覧会
前宣伝・広報無しの開催は、何故?
今、東京国立近代美術館で「戦争の記録と記憶」をテーマにした展覧会が開催中です(「記録をひらく記憶をつむぐ」)。近美のこの夏のメイン企画ですが、広報も宣伝もほとんどなくてひっそりと開催しているので、とても地味な印象があります。一部報道機関がこのことを問題にして記事を書いていて、私も気になったので、先日見に行ってきました。お盆の期間中ということもあってか、入場者は思ったよりは多かったです(とはいえ、その半分近くは海外の観光客の人たちのようでしたが)。
ポスターもチラシも作らずという徹底した広報なしの理由を、東京新聞は「ひとえに予算の都合によるもの」という美術館の釈明を伝えています。予算が限定されざるをえなかったのは「当初メディアとの共催展を想定して準備を進めたものの、共催展は観客動員を図る様々な広報策を講じる必要があるが、本展を「センセーショナルなものにすることは美術館の本意ではない」ことや、学術的研究に基づきデリケートなメッセージを鑑賞者に伝えることを企図したため、途中段階で共催展を取りやめ、館のみの自主展に切り替えたと明かした。」
なんとなく不透明な説明に裏の事情を勘ぐってみたくなるところですが、何度か読み返しているうちに、今回に関しては私は「うーん、やむを得ないかも」というところに行き着きました。どういうことかというと、テレビやSNSを通じて実感される世の中のいくつかの事象――一つに、文化的催事をタレントなどを起用して軽佻浮薄に紹介して済ますメディアの広報手法、二つに、いわゆるきな臭さの度合いを増しつつある政治・言論の状況、三つに、公的・定例的な文化事業や施設の縮小・閉鎖、文化財の処分などの「無駄な経費の削減」施策があります。これらの社会状況の中で「戦争記録画の展示」などという企画は格好の餌食にされてしまう可能性が、現実的にありえるのが今という時代です。近美のいう「センセーショナルなものにすることは美術館の本意ではない」というのは、そのあたりのことを言おうとしてるのではないだろうか?ということです。
過去の事実をなかったことにしたり、記録して遺されているものを改ざんしたり、場合によっては記録そのもの、史料や文化財そのものを廃棄したりするというようなことが現実に起こり、しかもその件数が急速に増大化しています。事態はむしろ、文化財をいかに廃棄の憂き目から逃れさせ保存していくかということを、真剣に考えることが要請されて来ているのです。同時に、記録に遺されている史実とどう向き合っていくか(たとえば戦争記録画という遺産とどう向き合っていくか)ということも、これに並行して検討していく必要があるようです。
近美の今回の対処は、ゆくゆくどのように振り返られることになるのか、あまり明るいとは言えない、不安の雲が行く先に立ち込めているように私には感じられます。
展覧会は10月26日まで。話題としては、SNS上では藤田嗣治の画力の高さへの評価とか、アーチストしての戦争への向き合い方の真実を再認識する発言が見られます。
私個人としては、女性画家の戦争参加として注目を集めている、女流美術家奉公隊の「大東亜戦皇国婦人皆働之図」の2点が初見で、興味深く観賞しました。
《○○方面鉄道建設》(1944年、東京国立近代美術館所蔵 無期限貸与作品)
藤田嗣治の絵が注目されていますが、猪熊弦一郎の絵にも興味を惹かれました。
この作品はビルマ(現ミャンマー)での鉄道敷設工事の現場の人々を描いたものですが、人々の眼差しが冷たく刺すように描かれています。
女流美術家奉公隊の「大東亜戦皇国婦人皆働之図」(秋冬の部)
靖国神社遊就館蔵
【悦ばしきコトノハ】
「事実というものはない。解釈があるだけである。」
F.ニーチェ『権力への意志』より
フリードリッヒ・ニーチェの『権力への意志』に目を通したのは学生時代だったが、ほぼ半世紀ぶりに頁をめくっていたらこの言葉に出会った。私には結構説得力のある言葉です。
私は小学生だったころから現在に至るまで、新聞の記事を読んだことがほとんどない。人の作文や小説を読むのは好きでしたが、新聞の文章は全く肌が合わず、極端に言えば、そこに書かれていることが少しも頭の中に入ってこなかった。成人してからその理由がわかってきた。それは“事実”とか“客観報道”というものが芯からは馴染めなかったから。そこに書かれていることが書き手(記者)が“解釈”したこととして書かれていたら、読めたかもしれない。客観的事実というものは得体がしれず、主観を通して追及されたリアリティにこそ客観性が、そして“真実”が獲得されていく道である。
他方“解釈”には〈恣意性の落とし穴〉ともいうべきものがあって、これには重々気を付けないといけません。出処や日付や制作者が確認されている記録があるにもかかわらず、それを捏造されたものとしたり、なかったことにしたりするのは、“誤謬の解釈”と判断されるべきであると考えます。「大地は水平な平面」とするのは一つの“解釈”ではありますが、科学によって実証されている今日の知見では、“誤謬の解釈”と見なされます。 (H.S.)
編集後記
かたちブックスめるまが便 第15号
発行メディア:工芸評論「かたち」 https://katachi21.com/
発行サイト:かたちブックス
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