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読書ノート

『海を撃つ』安東量子著
 笹山 央
 2011年3月11日に発生した東日本大震災と原子力発電所の爆発以後、著者が住むいわき市の最北端にある小さな集落で、放射線量を測りながら「人が暮らすとはどういうことか」を問い続けてきた人の8年間ほどの記録である。
放射線量計が示す数値を、生活環境の汚染度として“高い”と判断するか“低い”と判断するかをめぐる(科学的判断の)問題と、日々の暮らしに付きまとう不安が科学的な説明によっては決して払拭されることがないという生活実感との関係を軸に据えて、暮らすこと・生きることの意味が問われ続けている。
 著者が福島に住むようになったのは結婚によってである。それまでは生れたときから広島市に住んでいた。被爆体験はない。両親も広島の人ではなく、父親の仕事の関係で広島に移住してそこで著者が生れたのである。
大学に進んで茨城県に独りで住むようになり、新しい交友関係ができ始めたときに、広島の出身であることを意識させられる出来事が起こった。それをきっかけにして広島のことを考え始めたが、著者にとって「大発見」となったのは「他の街にはあるものが、広島にはない」ということだった。広島の戦前までの街並みが、自分の中で記憶としてさえ存在していない(著書では「忘却とは違う、あらかじめそれらが不在だったのだ。」と書かれている)ということに気がつく。
このこと、すなわち「絶えざる不安におびやかされることのない、どの町にもあるふつうの暮らし」を取り戻すために自分に何ができるかという問いが、大震災・大津波による原発事故後の作者の活動を、一番深いところで突き動かしてきたものである。
 私は著者以上に、広島の原爆体験も福島の原発事故も、自分の身に降りかかってきた災厄として直接に経験したわけではない。いわば非当事者としてこれらの災厄を遠目に見てきているわけだが、そういう立ち位置にある人間としてこの本にどう向き合えるかということが、詠み始めるときから少し気になっていたことだった。それが、本の前半に書かれている作者の広島体験の意味づけ、すなわち「他の街にはあるものが、広島にはない。自分の中で記憶としてさえ存在していない」と記している箇所に至って、これを「あってはならないことの体験を余儀なくされた人間は、その場所でどう生きていけばよいのか」という言い方に変えてみるのはどうかと思いつくことで、この本へのかかわりの糸口をつかむことができたように思う。

広島への原爆投下も福島の原発事故も「あってはならないこと」であった。同じように「コロナ禍に対する現政権の無為無策」も「現政権による民主主義の破壊と独裁化」も「あってはならないこと」でありながら、現実にはそれによって日本国民の暮らしが絶えざる不安の渦の中に呑みこまれていっている。この意味で「あってはならないことを体験しつつ日々を過ごしていくことを強いられている現在の日本で暮らすとはどういうことか」ということが今まさに問われているわけである。
そういう問題意識を伴ってこの本を読み進めていくと、私の場合特に5番目の章の「末続、測ること、暮らすこと」に書かれていることが、私たち自身にとっての同時代的な思考と行動のひとつのモデルとして切々と伝わってくるように感じられた。(末続(すえつぎ)はいわき市最北端にある小さな集落の名前。)
ここに、本文から二、三の箇所を引用しておこう。

「私たちの末続での活動は、簡単に言えば、放射線量を測定し、時に専門家を交えて話す、ただそのことの繰り返しだった。末続の放射線量は、最初から「低かった」。いや、確かに「高い」のだ。事故前に比べれば、疑いなく高い。けれどたとえば、世界の放射線量の平均と比べてみればさして変わりがない。だが、放射線量の低いいわき市内の他の地域から見れば、少しだけ高い。そしてまた、健康リスクという点から考えれば、低い。
その数値を、高いといえばいいのか、低いといえばいいのか。私は会話のたびに、「高い」と「低い」のあいだを揺れ動いていた。ある場面では高いといい、ある場面では低いという。ここは高いのか低いのか、それを簡単に言い表す言葉はなかなか見つからなかった。」(p.204)
「たとえば、原発事故前の自然の状態でも放射線は存在する。レントゲンでの被爆はこれぐらいで、世界には放射線がここよりも高い場所はあって……。説明の仕方はいくつもあった。けれど、この数字は低いのだと言えば言うほど、言葉は空回りし上滑りした。たいていの人は頷いて話を聞いてくれた。けれど表情は晴れない。猜疑心とまではいかないが怪訝そうな顔をする。きっとこちらに気を使っているのだろう、言いたいことを飲み込んだような奇妙な沈黙の後に、「でも、将来はどうなるかわからないですよね」と話を打ち切る。そんなことがしばしばだった。
そう、この数字は低いのだ。けれど事故前よりは高い。そして避難先よりも高い。低いけれど、高い。それをどう説明すればいいのか。理解すればいいのか。誰もが、困惑の中にいた。それは胃が痛くなるような作業だった。個人線量計は、それぞれが身につけて測定する。個々の測定者の生活が置かれる放射線状況によって、数値は変動する。この数字は、ただの数字ではない。測定する人の生活を反映している。生活そのものだと言っていい。この数値を価値づけることは、その人の生活を価値づけることになってしまう。」(p.206)
「暮らしの中に入り込んだ放射性物質を測定するということは、そのまま暮らしを測定し、評価することにつながる。暮らしに入り込んだ放射性物質の測定結果は、そこにある暮らしと切り離して、数字のみを取り出すことはできないのだ。彼女にとっては、ホールボディカウンターの測定結果は、自分の育てる野菜、その野菜を育てた彼女の土地、延いては暮らしを支える土地そのものへの信頼へとまっすぐつながっていた。
そして私は気づいた。原発事故によって放出・拡散された放射性物質が損なったのは、通常、事故が起きなければ自覚することさえない、私たちの暮らす環境そのものへの信頼だったのだ。自分の暮らす場所を信頼していますか? なにか不安はありますか? 通常であれば奇妙な問いだ。だが、私たちが原発事故以降ずっと問われ続け、そして知りたいと願っていたのは、きっとこのことなのだ。彼女の言葉によって、私は測ること、暮らすことの意味を理解できた気がした。私たちは、失われた土地への信頼をひとつひとつ測りながら確認し、またつなぎ合わせていく。」(p.214-215)
 これらの引用文を構成するひとつひとつの文の連なりは、そのまま著者と末続の住人とが行動し(放射線量を測る)、議論し(得られた数値は高いのか低いのか)、考え(どう理解すればいいのか)、といった手探り状態の中で繰り返してきたことを、その息遣いそのままに伝えてくるように私には感じる。いわば「あってはならないことが起こり、その場所に生きていくことを余儀なくされた人間が、進むべき道を見い出せないという状況の中で、それでもどうにかして道を探り求めていく営みをどのように継続させていくのか」ということを、コロナ禍や民主主義の崩壊の危機に直面している私たちに、身を以って示してくれているように感じられるのである。
しかしそこには、眼を見張らせるような妙案や発想の転換といったことは差し出されていない。むしろある意味、答えはありふれたものであるとも言える。「自分が暮らす場所への信頼」それをどう取り戻していくか、そのことに尽きるとも言える(※「自分が暮らす場所への信頼」は、たとえば「日本国憲法への信頼」という言葉に置き換えることが可能である)。「失われた土地への信頼をひとつひとつ測りながら確認し、またつなぎ合わせていく。」このことを繰り返していく他ないが、しかしそれこそが今、この日本という社会を生きていくことの意味なのだということが、私には腑に落ちたのである。
『海を撃つ』というタイトルについての説明は最後の章に書かれている。
海を眺望する高台の一軒家に住んでいる女性の孫が震災後初めて遊びに来た時、二歳のその男の子が海に向かって、手を鉄砲の形にして「バキューン」「バキューン」と撃つ真似をした。「ばあばをこんなに怖がらせて、こんなにたくさんの人をいじめた」海をぼくがこらしめてやるんだと言ったというエピソードが紹介されている。著者はその男の子が成人して再び海の前に立ったときに、「海を撃ったあの日のことを思い出して欲しい」と願望する。そしてこの本の最後は次のように締めくくられている。
「そしてその時、彼は再び海を撃つ。この出来事で失われたすべてを贖うために、過ぎ去った私たちの時代の愚かしさを海底に沈めるために。
あなたの両指の先から、海へ。」
「ばあばをこんなに怖がらせて、こんなにたくさんの人をいじめた」海をぼくがこらしめてやるんだと言った二歳の男の子の心に満ちていたものと、その思いを呑みこんでなにごともなかったように、ふだんはおだやかに凪いでいる海の時空の空しさとの間に、人々の「暮らす」ということや「生きる」という営みが続いていく。『海を撃つ』というタイトルを、読者たる私は、現時点ではそのように解釈し受け止めておきたいと思う。