PART2
PART1 PART3(“絵画”の定義 暫定的に) PART4
作品の参照はこちらからどうぞ。
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ドゥルーズがフランシス・ベーコンの絵画から「感覚の論理学」を導き出そうとしたことに対して、ここでは井上まさじの絵画から「行為の論理学」を打ち立てることを目指している。Part1で論じてきたところでは、「行為の論理学」とは、現代絵画の潮流を大きくアンフォルメル(アクションペインティング)とミニマルアートの二つの流れにおいて捉えて、それを弁証法的に乗り超えていく絵画の新たな地平として描き出そうとするものである。
したがって、Part2においてはこの「行為の論理学」を具体的に探求していくことが課題になるわけだが、そこへ入っていく前に、ドゥルーズの唱える「感覚の論理学」における「感覚」ということの意味を確認しておきたい。
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ドゥルーズはセザンヌとベーコンを結ぶ糸について論じている箇所で、「感覚は身体の中にあるものであり、絵はその感覚を描くのである」というセザンヌの主張に依りながら、セザンヌとベーコンに共通することは「感覚を描くことなのである」としている(p.53)。そして、画家の役割を次のように記述している。
「画家の役割とは、いわば諸感覚(色彩、味覚、触覚、匂い、音、重さ、など)の根源的な統一性を見えるようにすること、多感覚的な図像を、視覚的に出現させることなのである。しかしこのような操作が可能になるのは、一定領域の感覚(この場合は視覚的感覚)が、あらゆる領域を逸脱し、横断する生命の力能にじかに結ばれるときである。この力能は、〈リズム〉であり、視覚、聴覚等々よりも根本的である。リズムは、感覚的水準に備給するときは音楽となり、巣核的水準に備給するときは絵画となる。「感官の論理」とセザンヌは言っていたが、それは合理的ではなく、頭脳的なものでもない。最も重要なことは、したがってリズムと感覚の関係であり、これこそが、個々の感覚に水準と領域をもたらし、感覚はそのような水準と領域をくぐりぬけるのである。そしてこのリズムは、音楽を貫くように、絵画をも貫くのである。これは拡張と収縮であり、私自身を捉えて私自身の中に閉じこもる世界であり、世界に自らを開き、みずからも開く私である。」(p.62-63)
このように記述される「感覚」が絵画空間の中に“図像”を創り出し、“図像”的世界から“絵画的事実”が発生してくるプロセスの中に「感覚の論理学」が探りだされていく。
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「行為」という言葉を次の3つの事項で定義する。
1. 形跡を作り出して行くこと(作動)と押し留めること(制御)
2. 意識・意志・欲望に従うことと、無意識・自律的運動・被強制を因とすること
3. 目的を有する場合と無目的な場合
1. について
「行為」が遂行されると、なんらかの形でその形跡が残る。形跡を残すことが意図されて「行為」が作動する。
どのような作動においても常に制御が伴う(制御が伴わなければ、作動は無限大まで加速していき、最終的には破綻する)。したがって「行為」とは作動と制御の関数的関係であるといえる。
2. について
[随意筋と不随意筋]
身体の動きは主として筋肉の動きによることが多いが、筋肉の動きにも随意筋によるものと不随意筋によるものとがある。随意筋は骨格を動かす骨格筋がその主なもので、意識・意志・欲望の指示によって動く筋肉である。不随意筋は内臓を動かす筋肉で、そのメカニズムは生体のシステムに依っていて、意識・意志・欲望の指示で動かすことはできない。
随意と不随意の両方の指示を受けて動く筋肉として、呼吸の作用にかかわる横隔膜がある。ふだん意識していない状態では横隔膜は不随意的に動き続いているが、意識的に呼吸を止めたり速度を調整したりするのは随意的な動きである。
以上のことから、「行為」には随意筋による動きと不随意筋による動き、そして両者を合わせた動きの三つのタイプに分類することができる。
[偶然と必然]
無意識・自律的運動・被強制が因となっている場合には、“偶然”という要素が入ってくる。たとえばアクションペインティングはそれを積極的に評価して取り入れていく絵画の方法といえる。他方、行為者が自らの「意識・意志・欲望に従」う行為は“計画”あるいは“必然”を遂行していく行為のように見えるが、しかし厳密にそうかと言えば、どこかには“偶然”の要素が見い出されることが多い。“偶然”と“必然”の違いは、実は何を基準とするかによって見え方が異なってくる。
3.について
“目的を有する”と“無目的”も視点が変わればその境も変わってくる。用事もなくただ歩き回っているだけでも、「散歩が目的」と言う場合もある。行為の成り立ちをどういうレベルで見ていくかで“目的を有する”と“無目的”との境が変化する。
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定義から導き出される「行為」の性質を記しておこう。
行為は概ね筋肉の動きによって発動してくると考えると、それを起こしているのが随意筋による場合と不随意筋による場合、そして両者による場合の3種類が想定できる。
1. 随意筋による場合は、基本的に単発的な行為となる。あるいは、単発的な行為が連続していくものとなる。ひとつひとつの行為が相似したものであれば、連なりの全体の印象としては繰り返しの行為に見えたりする。
2. 不随意筋による場合は、心臓の鼓動や消化器官の蠕動運動のように、基本的に“繰り返し”の動き(行為)として作動する。
3. 両者の同時的な行為としての動きは、呼吸作用が典型的である。呼吸作用は、意識していないときは不随意筋の作用として“繰り返し”の動きを継続している。他方、作用を意識して止めたり1回の長さを調節したりすることもできる。ただし、随意筋のみで作動できる時間は限られていて、止めるのもせいぜい長くて数十秒の間だけである。つまり随意筋だけによる行為は限定されていて、不随意筋の繰り返し運動があくまでベースである。
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さて、“絵(画)を描く”ということを、随意筋と不随意筋のはたらきの観点から捉えてみると、次のようなことが言えるだろう。
1. 随意筋による描画は、こういうものを描こうという目的意識を以って描かれるものが多いということが言える。言い換えれば、通常“絵画”という言葉から大半の人がイメージするであろうような絵画、すなわち写実的な絵画(描く対象があって、それを描き写す)や、抽象的な絵画(なにがしかのイメージがあって、それを画布上に再現する)、そして両者をミックスしたような、通称“半具象表現”と呼ばれていたりするような絵画である。
2. 不随意筋による描画を、ここでは身体の無意識的あるいは反射神経的な動き、また、工芸制作や手芸制作によく見られる、手の動きなど身体的訓練を積み重ねていわば身体化したと見られるレベルの技能によって描かれるようなケースとして捉えると、一方にアクションペインティングのような、いわば“描きなぐり”や偶然的な効果をそのまま生かしていくオートマティック描法による“絵画”が挙げられる。そして他方に、アウトサイダーアートや工芸・手芸分野における単純な繰り返し作業の集積によって得られてくる絵画がこれに妥当する。
3. 随意筋と不随意筋の両者を作動させての制作は、言うならば呼吸作用的な行為の形跡として“絵画”を制作する方法である。その形式は呼吸作用になぞらえられるということは、筋肉の不随意的な動きに即しつつ、それを随意的にコントロールしながら“絵画”制作を遂行していくということである。不随意的な動きに即するということは、多くの場合、規則的な繰り返し作業を伴うということに他ならない。そして、繰り返し作業を規則的に行っていくということは、そこに流れる時間の分節化、言い換えれば“拍子”や“リズム”がほぼ必然的に発生してくる。
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定義から導き出される「行為」の性質を記しておこう。
行為は概ね筋肉の動きによって発動してくると考えると、それを起こしているのが随意筋による場合と不随意筋による場合、そして両者による場合の3種類が想定できる。
1. 随意筋による場合は、基本的に単発的な行為となる。あるいは、単発的な行為が連続していくものとなる。ひとつひとつの行為が相似したものであれば、連なりの全体の印象としては繰り返しの行為に見えたりする。
2. 不随意筋による場合は、心臓の鼓動や消化器官の蠕動運動のように、基本的に“繰り返し”の動き(行為)として作動する。
3. 両者の同時的な行為としての動きは、呼吸作用が典型的である。呼吸作用は、意識していないときは不随意筋の作用として“繰り返し”の動きを継続している。他方、作用を意識して止めたり1回の長さを調節したりすることもできる。ただし、随意筋のみで作動できる時間は限られていて、止めるのもせいぜい長くて数十秒の間だけである。つまり随意筋だけによる行為は限定されていて、不随意筋の繰り返し運動があくまでベースである。
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さて、“絵(画)を描く”ということを、随意筋と不随意筋のはたらきの観点から捉えてみると、次のようなことが言えるだろう。
1. 随意筋による描画は、こういうものを描こうという目的意識を以って描かれるものが多いということが言える。言い換えれば、通常“絵画”という言葉から大半の人がイメージするであろうような絵画、すなわち写実的な絵画(描く対象があって、それを描き写す)や、抽象的な絵画(なにがしかのイメージがあって、それを画布上に再現する)、そして両者をミックスしたような、通称“半具象表現”と呼ばれていたりするような絵画である。
2. 不随意筋による描画を、ここでは身体の無意識的あるいは反射神経的な動き、また、工芸制作や手芸制作によく見られる、手の動きなど身体的訓練を積み重ねていわば身体化したと見られるレベルの技能によって描かれるようなケースとして捉えると、一方にアクションペインティングのような、いわば“描きなぐり”や偶然的な効果をそのまま生かしていくオートマティック描法による“絵画”が挙げられる。そして他方に、アウトサイダーアートや工芸・手芸分野における単純な繰り返し作業の集積によって得られてくる絵画がこれに妥当する。
3. 随意筋と不随意筋の両者を作動させての制作は、言うならば呼吸作用的な行為の形跡として“絵画”を制作する方法である。その形式は呼吸作用になぞらえられるということは、筋肉の不随意的な動きに即しつつ、それを随意的にコントロールしながら“絵画”制作を遂行していくということである。不随意的な動きに即するということは、多くの場合、規則的な繰り返し作業を伴うということに他ならない。そして、繰り返し作業を規則的に行っていくということは、そこに流れる時間の分節化、言い換えれば“拍子”や“リズム”がほぼ必然的に発生してくる。
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井上まさじの絵画創作は、上記のうちの3.に当てはまると筆者は考えている。このような絵画制作の方法を特徴付ける事柄は、“繰り返し”作業と、そこから生れてくる“リズム”である。
そこで次には、“絵画”にとっての“繰り返し”作業と“リズム”の意義について書き留めておきたいと思う。
まず“繰り返し”作業であるが、井上の場合で言えば、直径1mmほどの丸を細いペンでできるだけ密着させて、画面の左上の角近くから水平方向へ描いていく(最終的には画面右下の角近くまでいって終了する)行為がまさにそれである。描かれたものの近くに眼を寄せてディテールを拡大させるようにして見ると、丸の大きさや線の太さやインクの色が均一になるように、できるだけ機械的に描こうと心がけていることがわかるが、それでも丸の並び方は直線的ではなく、ゆるやかな曲線状態になっている。
ここでの“繰り返し”作業は生身の人間の手作業であることは言うまでもなく、いかに機械的な均一さを心がけても、微妙な誤差やズレが生じていくことは避けようがないということも伝わってくる。人間の手による“繰り返し”作業、その形跡が現し出してくる表象は,具象的な形態の表現を意図したものではないという意味で無意味なものであるが、なにがしかの形をともなって生まれてきているわけである。
不思議なことではあるが、意味はないけれども観る者はその形になにがしかのインパクトを受けることが多く、時には心を動かされる(つまり、感動する)ことも決して少なくない。その事実が、美術造形の領域にいわゆるアウトサイダー・アートというカテゴリーを見出したと言えるだろう。井上まさじの、黒いインクとペンと繰り返し作業だけで成り立っているような“絵画”作品も、結果として現象している黒の濃淡の微妙なゆらぎを、いわば鑑賞の対象として眺めることができるのである。
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繰り返し作業について考えをさらに深めていくと、そもそも自然界における植物の形というのが、本質的なレベルで繰り返し作業の積み重ねから出来してきていることに思い当たる(ある意味では動物の形態もそうなのだが、これについてはここでは棚上げにしておく)。植物の成長は細胞分裂を繰り返していくことで遂行され、その間絶えず空気(風)や水(雨、川の流れ)や温度(熱)といった外的環境の影響を受けるため、その過程は決して一律ではない。そのことが、同じ仲間であっても一本一本その姿形を変えていくのであるし、その集合した様子を見ると、いわゆる“有機的”と称される混沌としたカオスを呈しているように見えるわけである。
造形の方法として繰り返し作業を基軸にしているような創作の場合も、その作業の過程で心身の状況や外部の影響をうけながら進んでいくことが避けられないので、その進展の様子は決して一律ではなく、可視的世界にその姿を現わしてくるにつれて、植物的な形状を呈してくるようになる。このことから、繰り返し作業による造形プロセスを有機物の生成現象に相似するものとして捉えて、「形を生成していく造形方法」と呼んだりする。あるいは、その作業が時間の流れを伴っているので「集積された時間の造形」と呼ばれることもある(私は1980年代に、繰り返し作業を基調とする工芸的手法による造形作品を“時間の肖像”と名づけて、これをテーマとした展覧会を何度か開催した)。
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「形を生成していく造形方法」とか「集積された時間の造形」といったことは、実際に生身の人間の日々の生命活動として行われているのであるから、その形状はまさに「生命の営みを集積していくことで結実してきたもの」にほかならないのである。その意味で、生命的活動を直接的に表現していると見ることも可能である。アウトサイダーアートの訴求力の強さ、受ける感動の生々しさはそういうところから発していることは明らかである。
井上の創作も根は同じところに発している。一見何も表現しない無機物のような創作物に見えて、実は時間の生命的な流れやリズムが自然界に流れるそれと相似の形で実感されるような造形が、そこに記されているのである。
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“繰り返し”作業は、それが単純なものであればあるほど、なにがしかのリズムを伴うことは私たちもよく経験するところである。“繰り返し”作業の中からリズムが自然発生してくると言ってもよいが、その現象のおかげで単調な作業であっても続けていくことができるし、場合によっては作業に没頭したり、エクスタシーを感じることがあったりする。リズムは生命の営みと深くつながっている現象であることは、たいていの人が認めるところであろう。
自然界にはリズムが満ち溢れている。時間的な現象であれ、空間的なあるいは物体的な造形現象であれ、あらゆるシーンにおいてリズムを認めることができる。自然界の有機性(無機性も含めていいが)と見える事象は、ある意味ではリズムが無限に近く重層して時空化したものと見なすこともできるほどである。
井上まさじの絵画の中に現れているゆらぎの現象も、井上の身心を律している生体のリズムが複雑に重層化して表出しているものと観る(感じる)ことができる。
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絵画における“リズム”の意義について、ドゥルーズの『感覚の論理学』を参照しておきたい。少し長くなるが、“リズム”について言及している箇所を引用しておこう。
「…もはや形態の変形ではなく、物質の解体によって、物質の曲線や顆粒が与えられる。したがって絵画がカタストロフィー絵画になるのと、図表-絵画になるのとは、同時なのだ。こんどはカタストロフィーに密着して、それとの絶対的近さにおいて、現代人はリズムを見出すのである。絵画の「現代的」機能という問題に対する答えは、抽象という答えといかに違うか、わかってくる。ここで無限を与えるのはもはや内的ヴィジョンではなく、絵の全面を覆う「オール・オーヴァー」の手動的力能の延長なのだ。
カタストロフィーと図表の一体性において、人間は物質と素材としてのリズムを発見する。画家はもはや道具として筆と画架をもっているのではない。こうした道具は、光学的な組織の要求に手が従属することを意味していたのである。手は解き放たれ、棒、スポンジ、布切れ、注射などを使う。アクション・ペインティング、絵のまわりの、あるいはむしろ絵の中の、画家の「熱狂的ダンス」、絵は画架の上に広げられるのではなく、広げないまま床の上に釘付けされる。地平線から床への移動が起きたからである。…」
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【制御(コントロール)】1
井上まさじの絵画制作の特徴の一つに、“コントロールの精確さ”ということがある。直径1mmほどの円の大きさの均一度、それを順番に並べていく接触間隔の均一度などにそのことが端的に表れている。その観点から見ると、ほとんどコントロールの精確さだけで創作しているという印象を受けるほどに、感覚的・感情的な表現はいわば0に近い。その意味ではアクション・ペインティングとは対極をなす方法と言える。
コントロールということの絵画創作上の意義――これはおそらくスポーツなどとも同じかと思うが――は、身体の動き・操作(絵画の場合は、主として手の動き・操作)を自分の意志に従わせ、感覚や感情の表出を制御する、というところにある。コントロール(制御)というと、思うままに表現することを制限する行為のように聞えるかもしれないが、実際はそうでもない。身体の操作を自分の意志に従わせるということは、ある意味で自分の身体を自由に操作するということである。
しかし身体は基本的には有機的自然物であって、ヒトという動物種が共有する構造を有していて、その仕組みを超えるところまでの自由さには達し得ない。つまり、ヒトという生体の組織体として自然的に成立している身体の動きの枠内での自由という限定性がある。
人間の行為は、そのような自然的な与件・成り立ち(骨組および不随意筋)と意識の働きとしての意志(随意筋)との相関関係の枠内で遂行されていくものであることは言うまでもない。なので、行為の結果としての形跡に美的な感興を覚えるとすれば、それは自然的な与件(骨組および不随意筋)と人間の意志(随意筋)との相関関係から由来していると考えることができる。たとえば大工や料理や工芸の職人の、素材(自然物)を加工していく手や身体の動きに美しさを感じるのも、またその結果として生れてくる作物の美しさも、自然的な与件と人間の意志との相関関係に由来するものであり、また、その内容を美として伝えてくるものである。
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【制御(コントロール)】2
自然的な与件と人間の意志との相関関係がうまくコントロールされているときというのは、いわば両者のバランスがうまく取れている状態を示すのである。その典型的な例は呼吸作用である。呼吸作用は酸素の吸収と二酸化炭素の排出を、生きている間は休むことなく遂行していくためにとられている不随意筋の活動に依っているが、その作用を一瞬止めたり、速度を変えたりする意志の働きに従う随意筋的な動きも可能である。そこで人間は呼吸作用を自由にコントロールする訓練を行ったりすることもできるわけだが、それはいわば不随意筋の活動を随意筋の作用でコントロールするということである。
ここには意識のはたらきが自然的な与件にはたらきかけるという関係が認められ、この関係によって呼吸作用をある範囲のなかで思うがままに操作することができるわけである。
呼吸法というのは宗教や武道やスポーツなどの分野でよく聞く訓練法の一つだが、これを会得していくことは、精神の状態を平穏にしたり、身体から無駄な力を取り除いたり、身体組織全体のバランスを維持するのに有効であると言われる。
呼吸作用を自由に操作できるように訓練を重ねてきた人の、瞑想状態にあるときの呼吸の様子を見ると、呼吸をしているのかどうかが外見からはうかがえないほど、静かでインターバルの長い呼吸が観測できる。そういう状態に在るときは、身体全体のバランスが非常によい状態の中に在り、精神の状態は静寂でる。それはいばわ、意識のはたらきと自然的与件とが融合している状態を現しているかのようである。呼吸作用のコントロールが高度なレベルで行われるということは、意識と自然が融合していく状態を顕現するということであると考えられる。
井上の絵画作品は、意識と物質(自然)との間のそういったいわば“境地”とも呼びうるような融合状態が成就されていると見ることも可能である。
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【目的なき合目的性】
絵を描くことの目的を、なにがしかのイメージを可視化するとか、なにかの形や色を再現するとかいったことに求めるとするならば、井上の絵画にはそういった意味での目的と見なされる事柄は無いと言える。しかし「小さな丸を画面いっぱいにびっしりと埋め尽くす」ことが目的と設定されているならば、目的を目指して描いているとも言えるわけである。「絵を描く目的」をどういう基準で判断するかで、目的を持ったりもたなかったりするということについては、すでに一度言及している。
「目的」という言葉から筆者が連想するのは「目的なき合目的性」という言葉である。この言葉は18世紀ドイツの哲学者カントがその著『判断力批判』の中で提示しているが、意味は、一言で言うならばカントが考える「美の定義」である。解釈としては「美しいものは何かの目的の下で存在しているのではない。しかし人間の感覚に快感情を伴いつつ“美しい”と感じさせるのは、それが“目的にかなった”形式をそなえているからである」というのがさしさわりのないところかと思うが、解釈をめぐる専門的な議論はさまざまにある。しかしその内実に触れることは本稿の範囲を超えるものである。
ここでは、語感をあてにしたやや変則的な解釈を試みよう。すなわち「美的なものはなにがしかの目的の下に存在しているのかもしれないが、それがどういう目的であるかは特定することができない、あるいは、人間の認知能力を超えている。しかしその不可知な目的にかなっていることを感じさせることが、美の実感を生むのである。」
「目的なき合目的性」をこのように解釈すると、これは自然美にも人為の美にもあてはめることができる。
たとえば自然美については、自然物を創造するのは誰であるか――神とか自然の摂理とか――は特定できず、またその意図がどういうものであるかは人間の認知能力を超えているが、しかしそのような超越者が抱く自然界の創造の目的意識の下に造形されていると感じて、それを“美”と感受することは可能である。
また人為の美については、たとえば絵画を例にすると、カントの時代には具象的に表現されたものがほとんどではあるけれども、それは「目的なき合目的性」として捉えられる対象の美を描写しようとするものであると意味づけすることができる。時代がグッと下がって抽象画が創作されるようになると、その抽象的な形態表現は「目的なき」と感じられるし、しかしそれが美的に感じられるとすればそれを「合目的性」として認知することに不自然感はたいていの人は感じないだろう。
このように考えると、「目的なき合目的性」は自然美と人為の美を通底するいわば“美の普遍性”を表現する概念であるように感じられてくる。このことをよくよく考えていくと、実は自然美も人為の美も究極においてはその区別が消えて、その出自は同一の場であるという想念が得られてくるのである。
井上まさじの絵画はまさにそのことを伝えようとしていると考えられるのであるが、その意味で「目的なき合目的性」は、井上まさじの絵画の特徴を表すのにふさわしい概念であるように筆者には思われるのである。
カタストロフィー
それでは、この描く行為とは、いったい何によって成り立つのか。ベーコンの定義はこうである。偶然の痕跡を残すこと(軌跡-線)、場所や帯域を洗浄し、一掃し、あるいは拭うこと(染み-色彩)、いろんな角度、速度で、絵具を投げつけること。ところで、この行為、これらの行為は、すでに画布の上に(また画家の頭の中にも)、多かれ少なかれ潜在的あるいは現勢的な具象的前提があるということを仮定している。まさにこうした前提が、除去され、あるいは洗浄され、一掃され、拭われ、あるいは描く行為によって覆われるのである。(中略)それは画布の上、具象的蓋然的前提を襲ったカタストロフィーのようなものだ。(「感覚の論理学』より)